大内教弘(おおうち・のりひろ) 1420〜1465

大内盛見の二男。通称は六郎・新介。山名宗全の養女を妻とした。従四位下・左京大夫・大膳大夫。
嘉吉元年(1441)7月28日、従兄弟で大内氏当主であった大内持世が前月の嘉吉の変の巻き添えとなって嗣子のないまま死去したため、そのあとを受けて大内氏家督と周防・長門・豊前・筑前国の守護職を継ぐ。
この変ののち幕府は首謀者である赤松満祐の追討軍を編成したが、これに少弐氏がすぐに応じなかったとして、幕命を奉じるかたちで北九州に侵攻、少弐教頼と10月以来しばしば交戦に及んでいるが、対外貿易のための良港・筑前国博多を確保すること、父の仇である少弐氏を討つための口実であろう。勢力圏は守護4国のほか、安芸・石見・肥前国にも及び、康正元年(1455)には一時的ではあるが肥前守護としても名が見えている。
文安6年(=宝徳元年:1449)4月、足利義政が8代将軍に就任するに際して祝賀のために上洛したが、享徳4年(1455)以前には周防国に帰って分国の支配に力を入れ、康正3年(=長禄元年:1457)3月には安芸国厳島神社の神主家を援けて、安芸国佐東郡の分郡守護・武田信繁と交戦している。
伊予国河野氏の内訌に端を発する河野氏と細川氏の抗争(寛正伊予の乱)に際し、はじめは細川勝元の要請を受けて細川方に与し、寛正6年(1465)8月頃には子・政弘とともに伊予国に進撃しているが、この後まもなく細川氏の勢力拡大を警戒して方針を転換し、河野通春を援けて細川勢を圧したが、同年9月3日に伊予国和気郡居島(興居島)で病没した。享年46。法名は闢雲寺殿大基教弘大禅定門。
教弘以前の当主は在京することが多かったが、教弘は周防国山口を本拠として在国することを常とし、対外貿易によってもたらされる莫大な財力を背景に領国経営に意を注いだ。山口が文化都市として大きく発展する基礎が築かれたのは、この教弘の時代であったと思われる。豪壮華麗な築山殿が新造されたのもこの時代である。
のちに画僧として名をあげることになる若き日の雪舟等楊を山口に招いて庇護し、好学の士としても知られるかつての関東管領・上杉憲実も、教弘治世下の宝徳4年(1452)に長門国深川の大寧寺を訪れ、余生をここで過ごしている。