山名宗全(やまな・そうぜん) 1404〜1473

但馬国出石に本拠を持つ守護大名。山名時煕の子。通称は小次郎。宗全とは法名で、実名は持豊。弾正小弼・右衛門佐・右衛門督。
宗全には持煕という兄があり、時煕の後嗣と定められていたが永享3年(1431)5月に将軍・足利義教の勘気に触れて家督を退けられたという経緯があり、代わって宗全が永享4年(1432)(永享5年8月とも)に家督を継ぎ、永享7年(1435)7月には時煕の死によって山名一門の惣領を継いだ。
永享9年(1437)7月、持煕が備後国において挙兵したがこれを鎮圧して領国の支配を固めた。
永享12年(1440)に侍所所司となり、幕府内においても政治的地位を高めた。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱においては、領国が隣接していること、幕府内における立場などから幕府方の興した赤松氏追討軍の主力となって赤松満祐を討ち、その遺領である播磨のほか、但馬・備後・安芸・石見・伊賀・備前・美作の8ヶ国の守護職を山名教清・山名教之ら一族で兼ねるなど山名氏の全盛期を築き上げ、その勢威は室町幕府管領・細川氏に比肩するほどのものとなった。
文安元年(1444)に播磨国の奪回を目論んで赤松一族の赤松満政・祐則父子が挙兵すると、翌年には後花園天皇より『治罰の綸旨』を得て、これを追討した(赤松満政の乱)。
宝徳2年(1450)、落飾して宗全と号す。
享徳3年(1454)、没落した赤松氏が細川勝元を介して幕府への再出仕を求めたが、宗全はこれに断固として反対する態度を示した。このことによって将軍・足利義政や細川氏との関係が悪化し、幕府から追討を受けそうになるが、11月3日、宗全が家督を嫡子・教豊に譲ることで一応の落着を見せる。しかしなおも一族の実権を掌握し続けて『赤入道』の異名で幕府内で隠然たる勢力を揮った。一休和尚から『鞍馬の毘沙門の化身』だと評せられたという。
享徳4年(1455)5月に赤松則尚を備前国に追い落として自害に追い込む(赤松則尚の乱)など、宗全はその後も赤松氏に敵対する姿勢を崩さなかったが、将軍や細川勝元は赤松氏再興を支援したため、水面下での対立は深まるばかりだった。
義政の後嗣をめぐる相続争いで義政実子の義尚派と義政実弟の義視派が対立すると、宗全は義政の正室・日野富子の依頼で義尚を支援。これと時をほぼ同じくしてもちあがった畠山・斯波の両氏の家督問題でも細川勝元とことごとく対抗した。
応仁元年(1467)、この山名宗全・細川勝元の両氏を総帥とする2派に諸大名が加わって、応仁の乱が勃発することになる。
この戦乱の最中の文明5年(1473)3月18日、京都の陣中において病没した。享年70。法号は遠碧院崇峯宗全。
宗全が没した2ヶ月のちには細川勝元も病死、双方の総帥を失ったことで京周辺での争乱は終息に向かうことになるが、この争乱で力をつけた守護大名ら同士の抗争に移行することになり、戦乱は全国的に波及することになったのである。