赤松満政(あかまつ・みつまさ) ?〜1445

赤松一族。赤松氏庶流・赤松(大河内)満則の子。赤松満祐の従弟にあたる。左京大夫・刑部少輔・播磨守。
将軍・足利義教の取次役を務めた側近のひとりで、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱には幕府方として参戦し、満祐方最後の拠点となった城山城への総攻撃にも加わっている。この乱によって赤松氏嫡流は壊滅するが、この抗争中に満祐の弟である赤松義雅から子・千代丸を託され、保護した。この千代丸が長じて時勝と称し、時勝の子・政則が赤松氏を再興することとなる。
嘉吉の乱ののち、将軍家御料所(直轄領)となった播磨国東3郡(明石・加東・美嚢)の代官に任じられたが、播磨国一円の支配を目論む山名宗全の工作によって嘉吉4年(=文安元年:1444)1月にはこの所領を召し上げられた。
これを不服とした満政は同年10月、子の祐則(別称を教政)や一族の赤松則尚らとともに播磨国に出奔した。しかし翌文安2年(1445)1月に後花園天皇より『治罰の綸旨』を得た山名宗全の軍勢に攻められて敗れ、赤松一族の赤松(有馬)持家を頼って摂津国有馬郡に逃れた。
当初は持家に援けられたが、3月に至って追討軍が増援されるに及んで見捨てられ、祐則らとともに自害した(赤松満政の乱)。