赤松満政(あかまつみつまさ)の乱

赤松満政は、大河内家と称される赤松氏庶流の出身で、将軍・足利義教に出仕して取次の任にあたる側近のひとりであった。しかし嘉吉元年(1441)6月24日、かねてより幕府に怨恨を抱いていた赤松氏惣領家の赤松満祐教康父子が、義教を殺害した(嘉吉の変)。
これにより赤松氏は朝敵とされ、領国に下向して挙兵した満祐らは討たれることになったが満政は幕府軍として参陣し、抵抗を続ける満祐が最後に拠った播磨国城山城への総攻撃にも、赤松一族で唯一幕府方に加わっている(嘉吉の乱)。
この乱で赤松氏惣領家は没落し、代わって満政が赤松一族の代表者的地位に就くことになった。赤松惣領家の所領は乱後の論功行賞において播磨国が山名宗全、美作国は山名教清、備前国は山名教之にそれぞれ守護職が与えられ、山名一族は大きく威勢を伸ばすことになった。また摂津国中島郡と播磨国の東3郡(明石・加東・美嚢)は幕府の直轄領とされ、その代官として中島郡は細川持賢、そして播磨国東3郡は満政が任じられたのである。
つまり播磨国の支配は満政と宗全に委ねられることになったのであるが、宗全は播磨国全域の支配を目論み、幕府関係者に満政の不忠を内々に申し立てたという。この宗全の工作によって嘉吉4年(=文安元年:1444)1月22日、播磨国東3郡は満政から没収され、宗全に与えられたのである。
この処置に強く不満を持った満政は子・祐則(別称を教政)や、嘉吉の乱で幕府方に降伏していた赤松則尚らとともに播磨国に下向し、所領の奪還を目指して挙兵に及んだのである。

この直後、山名氏側では播磨国において満政討伐の準備を進め、翌文安2年(1445)1月26日には後花園天皇より討伐を許可する『治罰の綸旨』が下された。これによって満政勢が朝敵、満政らを討伐する者は官軍として、明確に位置づけられたのである。これに先立つ1月20日より山名勢は満政の拠る東3郡へ侵攻しているが、満政は綸旨という大義名分を得た山名勢に敗れ、一族の赤松(有馬)持家を頼って摂津国中島郡へと逃れた。
持家は当初は満政を支援したが、3月24日に至って細川勝元の守護代・内藤之貞に率いられた増援軍が侵攻を開始するに及んで満政を見捨て、幕府軍として満政を攻撃したのである。
この抗争の最中に赤松則尚は行方をくらまし、望みを絶たれた満政は祐則や被官らとともに自害した。
4月4日にはその124人の首級が京都に運ばれ、高辻河原に晒されたという。