山名教之(やまな・のりゆき) ?〜1473

伯耆守護・山名煕之の子。山名氏幸の孫。治部少輔・相模守。伯耆・備前守護。
事情は不詳であるが父の煕之は家督を継承せず、伯耆守護家の家督は氏幸から教之へと継承されたようである。
先代の氏幸は応永31年(1424)10月までは伯耆守護職にあり、教之の守護としての初見は永享10年(1438)8月で、その間の応永34年(1427)5月には山名鶴房、永享6年(1434)4月には山名六郎が伯耆守護として名が見えており、この鶴房・六郎が教之の幼名・通称と思われる。
嘉吉元年(1441)7月、室町幕府6代将軍・足利義教殺害の首謀者である赤松満祐の追討令が下されると(嘉吉の乱)、山名一族の惣領である山名宗全(持豊)に従って出兵して戦功を挙げ、特に赤松方が最後の拠点とした播磨国城山城が落城した際、教之の手の者が炎上する城中より自刃した満祐の首級を探し出して持ち帰ったという。
これらの功績によって、戦後の同年閏9月には赤松氏旧領のうちの備前守護に任じられ、伯耆・備前守護を兼任した。
文正2年(=応仁元年:1467)に応仁の乱が勃発すると、山名宗全が総帥として采配する西軍に属したが、守護領国の備前国は東軍に与した赤松政則に奪われた。近年の研究によれば、応仁3年(=文明元年:1469)1月には教之の子・豊之が伯耆国の徴税を掌っており、伯耆守護職は豊之に移行していた可能性がある。
しかしその豊之も文明3年(1471)9月に伯耆国由良で「賊臣」に弑されたといい、この事態を受けてのことか、教之は文明4年(1472)6月に京から伯耆国へ帰国したが、半年ほどを経た翌文明5年(1473)1月13日に死去した。
領国統治の柱石である教之・豊之を失ったことで伯耆国は国人領主層が台頭することとなり、さらには同年3月に山名氏の惣領であった山名宗全も没したことで、一族間の分裂および外部勢力の介入を招くこととなった。