赤松義則の嫡男。兵部少輔・大膳大夫・左京大夫。播磨・備前・美作守護。侍所所司。
応永34年(1427)、父・義則の死後に赤松氏の惣領となる。このとき室町幕府4代将軍・足利義持は、赤松惣領家の領国のうちから播磨国を召し上げて御料国(直轄領)とし、これを赤松氏庶流で義持の寵臣でもあった赤松持貞に与える旨を満祐に伝えた。この処置に怒った満祐が京都西洞院二条の自邸に放火して播磨国に下向すると、義持は満祐追討を命じるとともに備前・美作国の守護職をも没収しようとしたが、諸大名が持貞の高慢な態度を義持に訴え、また持貞と義持の侍女との不義が発覚したことによって持貞が自害させられたため、結果的に満祐は赦されて3国の守護職も安堵された。
正長元年(1428)には足利義持の死去、疫病の流行や京都での洪水などで治安が悪化し、畿内一帯に正長の土一揆が勃興したため、侍所所司の地位にあった満祐は土一揆への対処に奔走した。さらに翌永享元年(1429)には本国である播磨国に満祐の領国支配に反抗する国人の一揆が起こり、この鎮定のために下向している。
永享9年(1437)春、6代将軍・足利義教は権力基盤を強化する意図から満祐所領のうち播磨・美作2国の守護職を召し上げ、赤松氏庶流の赤松貞村に与えるであろうという風聞が流れた。さらに永享12年(1440)には義教の側近にあった赤松義雅(満祐の弟)が不興を蒙って全所領を没収され、その一部が貞村に分与されるという事件が起こった。しかもこの年には一色義貫・土岐持頼といった守護大名が義教の意に沿わぬとして追討されており、次は赤松満祐という風評がたっていたのである。
これらのことから満祐の疑心暗鬼は深まり、嘉吉元年(1441)6月24日に嫡男・教康はじめ一族の者と謀り、再建成った京都西洞院二条の自邸に義教を招いて猿楽の宴の最中に暗殺した(嘉吉の変)。
義教殺害後は一族を率いて播磨国に下向、足利直冬の末裔にあたる足利義尊を戴いて反幕府勢力の糾合を企図し、細川持常や山名宗全らを主力とする幕府軍の迎撃にあたったが、8月下旬の播磨国蟹坂(和坂)の合戦での敗北すると満祐軍の退勢が決定的となった。9月初めには満祐が本拠地としていた坂本城が攻略され、9月10日には最後の拠点の城山城も陥落し、一族69人とともに自害した(嘉吉の乱)。享年61。法名は性具。