一色義貫(いっしき・よしつら) 1400〜1440

一色満範の子。通称は五郎。初名は義範。兵部少輔・左京大夫・修理大夫。
三河国幡豆郡一色を名字の地とする一色氏の祖・一色公深は室町幕府初代将軍・足利尊氏の曾祖父にあたる足利頼氏の兄弟で、以後も一色氏の累代は足利氏支族として南北朝時代から室町時代初期を通じて足利将軍家に重く用いられた。
応永16年(1409)の父の死後、若狭・丹後・三河国の守護職を継ぐ。応永25年(1418)および永享6年(1434)には山城守護を兼ね、また侍所別当も勤めた。
四職家の一家として幕府の中枢に在り、応永22年(1415)には幕府が推戴する北朝に反発して挙兵した伊勢国司・北畠満雅の討伐に従軍し、応永34年(1427)には4代将軍・足利義持の命を受けて播磨守護・赤松満祐追討にも加わった。
永享2年(1430)に6代将軍・足利義教の大将拝賀の際に一騎打の先頭を望んで許されず、病を口実に供奉に従わなかったため、義教の不興を買った。
のち畠山満家らの取り成しで幕政に復帰し、永享8年(1436)1月には大和永享の乱鎮圧のため、幕府の命を受けて出陣。永享10年(1438)7月にも大覚寺義昭が大和国で旗挙げしたとの報を受け、これを討つために出陣している。
しかし永享12年(1440)に大覚寺義昭の残党である大和国の越智氏一類を討伐中、義教の命を受けた武田信栄の軍勢に攻められ、5月15日に大和国信貴山の竜門寺で一族とともに自害した。享年41。法名は安養寺泰雲。
この義貫誅伐は、京都扶持衆(幕府に直属する武士や武家)の征伐を行った鎌倉公方・足利持氏に加担した持氏近臣の一色時家を守護領国の三河国に匿ったという噂によるものといわれるが、義教の推進する有力守護大名の抑圧策にも惹起したものであろう。