武田信栄(たけだ・のぶひで) 1413〜1440

安芸国分郡守護の武田信繁の嫡男。通称は彦九郎または彦太郎。正五位下・伊豆守・陸奥守・治部少輔。
永享8年(1436)1月、将軍・足利義教の命を受け、越智惟通らの追討軍の増援として一色義貫とともに大和国に出陣した(大和永享の乱)。
永享12年(1440)5月、将軍・義教の命を受けて一色義貫を大和国の自軍の陣所にて謀殺した。この義貫誅殺の理由としては、一色氏の一族に京都扶持衆(幕府と直結する武士または武家)の討伐を推進した鎌倉公方・足利持氏の近臣があってこれを匿った噂があったこと、丹後・若狭・三河国の守護を兼ねて幕政にも重きをなす一色氏の抑圧を図ったものともいわれるが、不詳である。大和永享の乱はこの前年に首謀者が討たれて一応は収束していたが、義貫は残党の討伐にあたっていることがわかり、信栄も同様に未だ大和国に在ったのだろう。
その後間もなくそれらの功によって若狭守護、一説には尾張国知多郡の分郡守護にも併せて補任され、御相伴衆にも列せられた。このとき、父・信繁より安芸国の佐東・安南・山県郡の分郡守護職も継承している。
同年6月29日には守護領国となった若狭国へと入部したが、7月23日に没した。享年28。一色義貫を謀殺した際にその家臣の三方忠治から受けた深手が原因といわれる。法名は長福寺殿天游光芸大居士。
若狭守護の在職期間は1ヶ月足らずであったが若狭国武田氏の初代となり、その家督は弟の信賢が相続した。