畠山満家(はたけやま・みついえ) 1372〜1433

管領・畠山基国の子。従三位・尾張守・右衛門佐・左衛門督。幕府管領。
応永6年(1399)12月の応永の乱に際しては父の基国とともに功を挙げ、大内義弘を討ち取る。
応永13年(1406)に父が没すると、満家はこれより先に3代将軍・足利義満の勘気を被っていたため家督や家職の相続を憚り、弟の畠山満慶(満則)が畠山氏惣領を相続したが、応永15年(1408)に義満が没したのち、満慶より畠山氏家督と河内・越中・紀伊守護職を譲られた。
応永17年(1410)6月から応永19年(1412)3月まで、および応永28年(1421)8月から正長2年(=永享元年:1429)8月までの間、管領となる。
応永35年(=正長元年:1428)1月に4代将軍・足利義持が危篤に陥り、5代将軍の足利義量もすでに他界していたことからその後継者の問題が起こった際には醍醐寺三宝院の門跡・満済とともに差配し、いずれも義持の弟で出家していた青蓮院義円・虎山永隆・大覚寺義昭・梶井義承の4人のうちからくじ引きで次期将軍を決めるということが決すると、そのくじを引いたのはこの満家であった。義持が没した翌日にはくじに記されていた青蓮院義円を迎え、還俗させて6代将軍・足利義教と成してその補佐にあたった。
これらの功で同年7月に山城守護に就任、義教が元服して将軍宣下を受ける正長2年(=永享元年:1429)3月までは将軍の代行として、満家の名で奉書や下知状を発給している。
同年4月には病体と老体を理由に管領職の辞意を表明しているが、8月に斯波義淳が管領に就任したのちも幕府の宿老として義教の諮問に与っている。
永享5年(1433)9月19日に没した。享年62。法名は真観寺殿真源道端。