斯波義淳(しば・よしあつ) 1397〜1433

管領・斯波義重(義教)の嫡男。斯波義将の嫡孫。従五位下・尾張守・越前守・治部大輔・左兵衛佐。
応永14年(1407)11月19日に11歳で元服し、従五位下・治部大輔に叙位・任官。
応永16年(1409)8月10日、祖父・義将から譲られて13歳で管領に就任。しかし未だ若年であったためか管領としての発給文書には父の義重が代判するなど、義重や義将の監督下にあったが、応永17年(1410)5月に義将が没すると、その翌月の6月には管領職を解任されている。
応永25年(1418)8月に義重が没すると越前守護職を継承。また、義重が兼帯していた尾張・遠江国の守護職についても、それぞれ応永31年(1424)9月、応永26年(1419)には活動が見られる。
管領職こそ解任されたものの、幕府を構成する主要な武家の当主であることは変わらず、応永30年(1423)7月には京都扶持衆を執拗に圧迫する鎌倉公方・足利持氏への対策、応永35年(=正長元年:1428)1月には4代将軍・足利義持の後継者問題などを細川・畠山・山名氏らとともに協議している。
足利義持の没後に6代将軍に就任した足利義教からの強い要請を受け、正長2年(=永享元年:1429)8月24日、再び管領に就任した。しかしこれは義教が義淳の能力を買ったというわけではなく、管領制を弱体化させて自身の権力を強化するためだった、とする見解もある。
永享4年(1432)5月頃、7月に予定された室町御所移転を記念する大饗の儀の主催を義教から命じられると、管領離任を申し出てそれを辞退しようとしたが許されなかった。その後の6月13日に義淳の嫡男・義豊が享年18で突然に他界したこともあり、再び大饗主催の辞退を申し入れたが許されなかった。このためやむなく7月25日から翌日にかけての大饗に臨んで成功させ、10月10日に至って管領の辞任を認められている。
これらの心労が祟ったためか、翌永享5年(1433)12月1日に享年37で没した。法名は道忠。斯波氏の家督は弟の斯波義郷が継承した。