斯波義重(しば・よししげ) 1371〜1418

斯波義将の嫡男。母は吉良満貞の娘。正三位・治部大輔・左衛門佐・右兵衛督。越前・尾張・遠江守護。
権勢を揮った室町幕府3代将軍・足利義満の猶子として重んじられた。
明徳2:元中8年(1391)5月までには叔父・斯波義種の後任として加賀守護に就任しており、これが史料での初見であるが、この加賀守護職は2年ほどで離任して再び義種が就いている。また、同年末の明徳の乱に出陣し、大内義弘らと共に山名氏を討った。
応永5年(1398)閏4月に父・義将が管領職を離任したことを契機として家督ならびに信濃・越前守護職を譲られたとみられるが、信濃守護職は翌年10月には小笠原長秀が復帰している。
翌応永6年(1399)の応永の乱には父・義将と共に出陣したが負傷している。
応永7年(1400)より尾張守護に就任。
応永9年(1402)1月に義教と改名。また、同年半ばに出家したとみられ、翌応永10年(1403)5月に発給した文書には法号の道孝を用いて署名している。
応永12年(1405)7月25日、畠山基国のあとを受けて管領となった。同年11月には遠江守護としての活動も見え、越前・尾張・遠江3ヶ国の守護を兼帯した。
応永15年(1408)5月に足利義満が没して足利義持が4代将軍に就任しているが、これを差配したのは引退していた父の義将であった。このためか翌応永16年(1409)2月9日には管領職を辞し(あるいは更迭され)、同年6月には義将が管領職に就いている。これは将軍の代替わりに伴う手続きなどを円滑に行うための措置とみられ、処置を終えたのちの8月10日には義重の嫡子・義淳が13歳で管領職を継承しているが、管領としての文書には義重が代判しており、実質的には未だ義重がその職に在ったといえる。
応永21年(1414)6月、義持の怒りにふれたため高野山に出奔したともされるが、これは従弟にあたる斯波満種のことであろうと思われる。
応永25年(1418)8月18日に没した。終焉に臨んでは端座合掌して往生したといい、その姿を万人が群衆して拝んだと伝わる。享年48。法名は道孝。