赤松貞村(あかまつ・さだむら) 1393〜1447

播磨国赤松氏の一族。赤松氏庶流・春日部家の赤松満貞の子。赤松持貞の甥にあたる。伊豆守。
近習として室町幕府6代将軍・足利義教に仕え、貞村の娘が義教の男子を産んで側室となっており、また貞村も美男で義教の男色の相手だったといい、その寵遇には厚いものがあった。
永享9年(1437)の2月頃より、義教は赤松氏惣領・赤松満祐の勢力を削ぐため、満祐の領する播磨・美作2国の守護職を没収して貞村へ付与しようとしているとの風聞があり、永享12年(1440)3月には赤松義雅(満祐の弟)の所領が没収され、その一部である昆陽野荘が貞村に与えられた。この昆陽野荘とは赤松氏にとって重要な地であり、このことが嘉吉元年(1441)6月の満祐による義教殺害(嘉吉の変)の主要な原因となったといわれている。
この嘉吉の変の際、貞村は義教に随行して京都の赤松邸に赴き、義教は酒宴の席で刺客に襲われて殺害されたが、貞村は即座に逃れて無事であった。
こののちの赤松満祐追討戦(嘉吉の乱)において、貞村は赤松氏庶流の赤松満政・有馬持家らと共に細川持常の率いる大手(正面)軍の一武将として播磨国へと出陣したが、搦手(後方)軍の山名宗全に先を越されて赤松満祐軍と直接戦うことなく終わり、寵愛を受けた義教の弔い合戦ともいうべき追討戦に戦功を挙げることができなかった。このことが嘉吉の変に際して義教に殉ずることなく逃走したことと併せて、世人の嘲笑をかったといわれる。
その後も貞村は幕府への出仕を続けたが、人々の謗言は止まず、文安4年(1447)に病没した。享年55。法名は福伝寺月理祐心。