赤松持貞(あかまつ・もちさだ) ?〜1427

播磨国赤松氏の一族。赤松氏庶流・春日部家の赤松顕則(詮則)の子。赤松則村(円心)の二男で春日部家の祖・赤松貞範の孫にあたる。越後守。
応永20年(1413)頃までには近習として室町幕府4代将軍・足利義持に仕え、その側近として申次などの諸事を勤めて寵愛され、応永30年(1423)頃には関東(鎌倉公方の足利持氏を指すか)調伏祈祷奉行のような機密の仕事に携わっていたという。
このような職務上の地位からか、または将軍の威を借ってのことか、持貞のみならず妻女までもが驕慢な振舞いが多かったとされる。
赤松氏の惣領であった赤松義則が没した翌月の応永34年(1427)10月、義則のあとを継いだ赤松満祐が突然に京都の屋敷に火を放って本国の播磨国に下向しているが、その原因は、義持が赤松惣領家の本国である播磨国を没収して持貞に与えようとしたためとも、持貞が義持の寵愛を恃みに赤松氏惣領の地位を望んで満祐を讒言したためともされる。
満祐の下国に怒った義持は幕府重臣の細川・山名・一色氏らに命じて満祐を討たせようとしたが、管領・畠山満家をはじめとする諸大名らが驕慢な振舞いの多かった持貞の不当を訴え、さらには11月10日に持貞が義持の侍女と密通していたことが露見したことで義持から切腹を命じられ、持貞は13日に自害した。
なお、のちに6代将軍・足利義教の寵臣として嘉吉元年(1441)6月の嘉吉の変、それに続く嘉吉の乱の遠因を作る赤松貞村は、この持貞の甥にあたる。