赤松義雅の子。母は『赤松盛衰記』などの史書では三条実量の女とされるが、赤松一族の者とする説もあり、不詳である。幼名は千代丸あるいは千松丸。
嘉吉元年(1441)に伯父・赤松満祐が将軍・足利義教を殺害して幕府軍の追討を受けたとき(嘉吉の乱)は7歳(一説には9歳)の少年であり、敗死を覚悟した父・義雅によって、追討軍に与した赤松一族の赤松満政に託された。
その後は母の実家・三条家の所領である近江国浅井郡丁野村の成願寺で出家して性存と号し、のちに還俗して時勝と名乗ったというのが通説であるが、母が赤松一族であるとの説に従えば、この伝承には疑問も残る。
しかし播磨国出身の禅僧・天隠龍沢の援助を受けて育ち、のちに時勝と名乗ったことは事実と見られる。
康正元年(1455)に21歳(一説には23歳)で早世したが、この時勝の遺児・法師丸(のちの赤松政則)が長じて赤松氏を再興した。