足利義視(あしかが・よしみ) 1439〜1491

室町幕府第6代将軍・足利義教の十男として永享11年(1439)閏1月18日に生まれる。妻は日野重政(政光)の娘で、日野勝光や日野富子の妹にあたる。
嘉吉3年(1443)に浄土寺に入って義尋と号していたが、兄であり8代将軍の足利義政に男子が出生せずに後継者がいなかったため、寛正5年(1464)11月に義政の後嗣となって翌月には還俗して義視と名を改め、従五位下・左馬頭に任じられた。
ところがその翌年(1465)11月、義政に義尚が生まれると、義政の側近で義尚の乳父(養育係)でもあった伊勢貞親が義視を廃して義尚を後嗣にしようと画策し、文正元年(1466)9月には貞親の讒言を信じた義政によって殺害されそうになったが、細川勝元を頼って難を逃れ、逆に貞親が失脚することとなった(文正の政変)。
翌文正2年(=応仁元年:1467)に応仁の乱が勃発すると当初は義政とともに細川勝元陣営(東軍)に在ったが、応仁2年(1468)閏10月に義政の召還を受けた伊勢貞親が幕政に復帰すると、これを嫌って同年11月に山名宗全陣営(西軍)に鞍替えし、西軍方諸将より将軍に奉戴された。
この応仁の乱は、幕府の有力大名である畠山氏や斯波氏の内訌に諸国や諸氏の反目、分裂抗争などが集約されて全国的規模の争乱になったものだが、武家の頂点に立つ足利将軍家までもが加わったことで混迷の度合いを増した。
しかし文明5年(1473)3月に宗全、同年5月に勝元が相次いで没すると両陣営に和議の機運が起こり、同年12月には将軍職が義政から義尚に譲られたことで義視の将軍就任への途は断たれたことなどもあり、文明8年(1476)12月頃より義政との和解を探り、文明9年(1477)11月の西軍解体とともに美濃守護・土岐成頼に迎えられて美濃国に下ったため、京都における争乱は一応の終息を迎えた。
延徳元年(1489)に義尚が、翌延徳2年(1490)に義政が没したのちに義視の子・義材(のちの足利義稙)が将軍職につくと義視は三宮に准ぜられ、大御所として幕政を後見した。こうして、自身は果たしえなかった将軍就任の悲願を自身の子によって達せられた義視であるが、この頃より病気がちになり、延徳3年(1491)1月7日に京都で病没した。享年53。法名は大智院久山道存。