陶弘護(すえ・ひろもり) 1455〜1482

大内氏重臣。陶(右田)弘房の長男。母は仁保盛郷の女。妻は石見国の国人領主・益田兼堯の女。越前守・尾張権守。周防守護代。
大内氏の庶流である陶氏は、大内(多々良)氏16代の大内盛房の弟・盛長が右田氏を称し、そのあとを17代の大内弘盛の弟・盛綱が継ぎ、その孫の弘俊の二男である弘賢が周防国吉敷郡陶村を領して陶氏の祖となった。
弘護は康正元年(1455)9月3日に生まれ、幼名は鶴寿丸、長じて五郎を称した。
応仁2年(1468)に父・弘房が出征先の京都相国寺で戦死すると、翌文明元年(1469)に元服して主君・大内政弘の偏諱を受けて弘護と名乗り、文明2年(1470)に周防守護代となり、大内氏重臣として政治の中枢を担った。
応仁の乱に際し、主家の大内氏は周防国より近畿に出征して西軍の雄として活躍していたが、その隙を衝いて文明2年に大内教幸(大内政弘の伯父。道頓と号す)が東軍方となって国元の長門国赤間関で挙兵すると、弘護はこれを鞍掛山に鎮圧し、ついで文明3年(1471)の暮れには豊前国馬岳城に追撃して討った。
文明9年(1477)、政弘が京都より帰国すると、留守中の功績を称えられて兄弟の盟約を結んだという。
文明10年(1478)9月には政弘とともに北九州へ出陣し、少弐政資らの反抗勢力を破って豊前・筑前国を平定した。
文明14年(1482)5月27日、弘護は政弘が周防国山口の館で催した酒宴に参加したが、そこに同席していた石見国三本松(津和野)城主・吉見信頼と争って刺殺された。
信頼は大内教幸が挙兵した際に結んでいたため弘護と敵対したという経緯もあったが、弘護の讒言によって吉見氏が滅ぼされることを危惧しての凶行だったという。
享年28。法名は昌竜院殿建忠勲大居士。長子の武護が未だ幼少だったため、弘護の弟・弘詮が家務を宰した。