(まがり)の陣

近江国南半の守護・六角高頼応仁の乱で西軍に属した経緯からしばしば幕府から圧迫を受けており、このために幕府に反抗する姿勢を強め、幕府の禁制を無視して近江国内の将軍家御料所(直轄領)や幕臣の所領、寺社領荘園などを押領するようになった。
被害を受けた諸将や寺社・山門はこれを9代将軍・足利義尚に訴えて高頼の処罰を請うた。義尚は長享元年(1487)7月23日にこれを容れて高頼の討伐を決め、8月に入ると在国の諸将を招集したのであった。これは、応仁の乱で失墜した将軍の権威を取り戻すため、その武威を天下に誇示しようとする思惑もあったであろう。
義尚は9月11日に父・義政を訪ねて出征の報告を行い、翌日に出陣した。従うのは浦上則宗・一色義秀・斯波義寛・細川元有ら8千とも1万ともいわれる軍勢である。大将の義尚は坂本を本陣に定め、20日には先軍として細川政元武田国信富樫政親らを勢多に進撃させ、24日に六角方の要衝である金剛寺や八幡山を陥落させた。幕府軍はさらに進んで六角氏本城の観音寺城を攻めようとしたため、劣勢を強いられた高頼は観音寺城を捨て、甲賀郡に遁走したのである。
緒戦に勝利し、10月4日に栗太郡鈎の安養寺に入った義尚は、六角氏によって押領されていた所領を没収して廷臣や門跡らに還付した。さらに翌5日に幕府軍は高頼追討のため甲賀郡に侵攻して高頼をさらに逐い、ひとまずは所定の目的を達したのである。

義尚は27日には本陣を鈎の真法(宝)館に移し、腰を据えて高頼支配下の国人らの掃討を行おうとしたが、甲賀山中に逃げ込んだ六角勢力を根絶することは容易ではなかった。12月2日に幕府軍が一旦撤収しようとしたところを六角勢の軍勢が襲撃に転じたほか、諸将の陣所には夜討ち・放火が仕掛けられるなど撹乱戦に悩まされ、また翌長享2年(1488)3月には六角方の伊庭某が伊賀国より近江国に進出しようとする動きもあり、戦局は膠着した。
その一方で義尚は飛鳥井雅康・三条西実隆・宗祇らの文化人を招いて歌会・猿楽・蹴鞠などを催しており、戦陣に在るという緊迫感は薄かったであろう。
幕府方の内部においても、長期に亘る滞陣を憂慮した細川政元が長享元年11月に義尚に陣を坂本に移すことを勧めていたが、義尚がこれを容れなかったため不和となり、長享2年6月20日に大津の陣所から撤収してしまった。8月になって義尚が大内政弘を召し出そうとした際には政元はこれを抑止しており、10月3日には復帰して再び大津に着陣していることから一応不和は解けたと目されるが、自領内に蜂起した一向一揆を鎮定するため帰国した富樫政親のような離脱者などもあった。

このような状態で義尚の滞陣は続けられたが、疲労や生来の深酒などのせいもあって健康を損ね、長享2年3月には病に罹り、一時は回復するも、長享3年(=延徳元年:1489)3月26日、1年半に亘って陣するも六角高頼征討を果たせぬまま、鈎に没したのである。
義尚の死没によって幕府軍は鈎から撤退し、細川政元の斡旋を受けた六角高頼は押領した土地を返還するということで許されたが、高頼は依然として押領を続けたため、10代将軍となった足利義稙によって延徳3年(1491)8月より再征を受けることになる。