浦上則宗(うらがみ・のりむね) 1429〜1502

赤松氏の重臣・浦上宗安の子。美作守。
備前国三石城主であった父・宗安が嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱においてその主君・赤松満祐と共に討死したため、城から落ち延びて逼塞していたが、長禄2年(1458)に赤松政則が赤松氏の再興を許されると信任を受けて側近となって補佐し、とくに応仁の乱に際しては播磨・備前国や京都を転戦し、主家の赤松氏が播磨・備前・美作3ヶ国の守護および侍所所司として再興するのに尽力した。
これらの功績によって三石城主に返り咲くとともに侍所所司代と山城守護代・備前守護代を兼ねて赤松家中に重きをなし、旧領を回復した政則が山名氏の残存勢力を駆逐するため領国に帰還する際には所司代として京都に留め置かれている。とくに京都の治政を行うにあたっては優れた手腕を発揮し、将軍である足利義政義尚の信任も厚かったという。
再興を果たした赤松氏が勢力を大きく伸張できたのは則宗の補佐に係ると謳われるほどの威勢を誇り、文明15年(1483)9月からの福岡合戦において政則が戦略を誤って山名勢に敗れると、則宗は政則を見限って播磨国から放逐し、赤松氏庶流の有馬慶寿丸(のちの有馬澄則)を迎えて赤松氏惣領に立てた。しかし山名氏との抗争には苦戦し、のちに政則と和解して再び迎え、山名勢を撃退した。
政則の没後はその嗣子で幼少の赤松義村を奉じて実権を握り、その権勢は主家を凌ぐものがあった。
文亀2年(1502)6月11日、備前国三石城で死去。74歳。生没年には異説もある。