赤松義村(あかまつ・よしむら) 1472〜1521

播磨・備前・美作守護。赤松氏の庶流・七条政資の二男。幼名は道祖松丸。通称は二郎。兵部少輔。播磨国置塩城主。
赤松氏惣領・赤松政則の娘を娶って婿養子となり、明応5年(1496)に政則が没したのちには赤松氏惣領の家督を継承した。
対外政策としては、養母・洞松院が管領・細川政元の姉という所縁や地理的な関係から幕府将軍家や管領家の内訌にも関与し、永正年間に激化した細川京兆家(管領家)の家督をめぐる細川澄元細川高国の抗争に際しては、領国を接する摂津国方面の戦線に澄元方として参戦して永正8年(1511)8月には高国方の鷹尾城を落城させ(鷹尾城の戦い)、澄元が推戴していた11代将軍・足利義澄が同年に没したのちにはその遺児・亀王丸(のちの12代将軍・足利義晴)を保護するなどしており、澄元寄りの立場であった。
しかし幕府(高国陣営)寄りの立場であった洞松院から圧力を受けるところとなり、家中においては重臣・浦上則宗に実権を握られていたため統制に苦しみ、則宗が没したのちもその子(あるいは孫)・村宗が備前守護代として備前国三石城に拠り、主家である赤松氏を凌ぐ武威を揮っていた。この退勢を打破するため、義村は永正15年(1518)から数度に亘って村宗を三石城や美作国に攻めたがことごとく敗北し、意を通じた洞松院と村宗から隠居を強要されて永正17年(1520)に家督を嫡子の才松丸(のちの赤松晴政)に譲り、常印と号した。
翌大永元年(1521)、村宗との間に和解が成立したが間もなく破れ、村宗によって播磨国室津に幽閉され、9月17日に殺害された。50歳。法名は祥光院了堂性因。