足利義澄(あしかが・よしずみ) 1479〜1511

室町幕府第11代征夷大将軍。在位期間は明応3年〜永正5年(1494〜1508)。従一位・左馬頭・参議。
堀越公方・足利政知の二男。足利茶々丸の異母弟。母は武者小路隆光の娘。文明11年(1479)12月15日、伊豆国の堀越で生まれた。
8代将軍で伯父の足利義政の命を受けて文明19年(=長享元年:1487)6月に上洛して天竜寺香厳院に入って出家、清晃と号す。
長享3年(=延徳元年:1489)3月に9代将軍・足利義尚が病没すると、翌年7月に足利義稙が10代将軍に任じられたが、義稙やその父・足利義視と対立していた管領・細川政元らが清晃を将軍位に就けようと画策しはじめ、義稙が畠山義豊と争う畠山政長を支援するために明応2年(1493)2月より河内国に出征している隙に乗じて4月に決起。政元は河内国に軍勢を派遣し、閏4月に政長は自害に追い込まれ、義稙は捕えられた(明応の政変)。
清晃はこの間の4月に還俗して義遐(よしとお)、6月には義高と改名。そして明応3年(1494)12月27日に第11代の征夷大将軍に就任し、文亀2年(1502)7月に名を義澄と改めた。
しかし永正4年(1507)6月に政元が横死、翌年4月に前将軍の義稙が周防国の大名・大内義興の援助を受けて攻め上るとの報を聞いて、義澄は近江国の六角高頼を頼って朽木に逃れた。この政変により、永正5年(1508)、義稙が将軍位に返り咲いた。
その後義澄は、豊後国の大友氏や政元の養子・細川澄元の支援を受けて失地の回復に努めたが入京を果たせず、永正8年(1511)8月14日に近江国岡山で死没した。享年33。法号は法住院旭山清晃。文明12年(1480)生まれで享年32との説もある。