足利茶々丸(あしかが・ちゃちゃまる) ?〜1498

堀越公方・足利政知の長男。第11代将軍・足利義澄の異母兄にあたる。
当初は政知の後継者と目されていたが、文明19年(=長享元年:1487)より上洛していた異母弟の義澄が管領・細川政元の支援を受けて次期将軍候補となると、茶々丸は廃嫡されて異母弟(義澄と同母)の潤童子が堀越公方の跡目に決められた。これは、義澄が将軍職に就任した場合に義澄・潤童子の実の兄弟で提携して再び古河公方・足利成氏に対抗できるとの構想を政知が抱いていたためと思われる。
そのため義澄・潤童子兄弟の母である円満院(武者小路氏)らによって軟禁されていたが、延徳3年(1491)4月に政知が没するとその混乱に乗じて脱出、7月に潤童子と円満院を殺し、実力で家督を継承した。しかし、酒乱の気があったともいい、讒言を信じて重臣を誅するなどしたため家臣が服さず、伊豆国は混乱に陥った。
この内紛に乗じて出兵した北条早雲によって明応2年(1493)10月に堀越御所を急襲されて没落した(伊豆の乱)。通説ではこのとき、または延徳3年に自刃したとされていたが、近年の研究では明応4年(1495)に早雲によって伊豆国を逐われ、のちに関東管領の上杉顕定や甲斐守護・武田信縄を頼って武蔵国や甲斐国に居留していたことが明らかとなっている。
しかし再び早雲に攻められ、明応7年(1498)8月に自刃した。法号は成就院福山広徳。