北条早雲(ほうじょう・そううん) 1456?〜1519

「北条早雲」の名は後世につけられた俗称で、実名は伊勢新九郎である。
後北条氏の初代に数えられるが、北条の姓を名乗るのは嫡子・氏綱からである。早雲とは出家後の庵の呼称であり、後世の人々が北条姓と庵号の早雲を用いて通称したため、北条早雲と呼ばれるようになったと目されるが、自身は伊勢姓、名には出家後の法名である宗瑞を用いている。諱を長氏や氏茂とする文献が多いが、これはいずれも後世に編纂されたもので、当時の史料には使われていない。
出自については諸説あり、山城国宇治や大和国在原の出身とするものや、伊勢国出身の素浪人であるとの説、京都伊勢氏または備中国伊勢氏の一族とするものなどが有名であるが、近年の研究によって幕府の申次衆や奉公衆を務めた伊勢盛時の後身であるという説がほぼ確定的となっている。
応仁の乱以前には京都に在って足利義視に仕え、義視に従って伊勢国に下った。そこから駿河守護・今川義忠の室となっていた姉・北川殿の縁を頼って駿河国に至り、今川氏に属した。
文明8年(1476)2月に義忠が没したのちの家督相続問題で、義忠の遺児・龍王丸(のちの今川氏親)が幼少であることを理由として一族の小鹿(今川)範満が家督を望んだことによって、今川家中に龍王丸派と範満派に分かれての内訌が起こった。龍王丸は北川殿の子であり、自身には甥にあたる。これを受けて早雲は「龍王丸が成人するまでは範満が後見人として今川氏を総括する」という折衷案で調停、これが受け入れられた。しかし龍王丸の成人後も範満が実権を握って手放そうとしなかったため早雲は長享元年(1487)11月に範満を攻めて討ち果たし、その功によって富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となる。
延徳3年(1491)より起こった堀越公方の内乱に乗じて伊豆国に進出、足利茶々丸を逐って堀越公方を滅亡させ(伊豆の乱)、韮山城を築いて根拠地とした。以後は伊豆国平定と平行して関東進出を狙い、山内・扇谷の両上杉氏の対立(長享の乱)を利用して扇谷上杉定正と結び、その援軍として明応3年(1494)9月よりたびたび武蔵・相模国に出兵している。
また通説では明応4年(1495)9月に謀略と奇襲策をもって大森藤頼を逐って相模国小田原城を奪ったとされているが、明応5年(1496)時点で小田原城に大森氏が在城していたとする説もあり、早雲による小田原城奪取の時期は不詳であると言わざるを得ない。しかし文亀元年(1501)頃までには小田原城を含む相模国西郡を制圧していたことが知られている。
この間の明応7年(1498)8月には甲斐国に侵攻し、逃れていた足利茶々丸を討ったことで名実共に伊豆国の平定を完遂した。
明確な年次は不詳であるが、この後の早雲は今川氏より自立して独自の軍事行動を展開するようになる。
永正6年(1509)には越後国の長尾為景や上野国の長尾景春と結んで永正の乱に介入、関東中央部への進出を目論んだ。永正7年(1510)から翌年にかけては連携した山内・扇谷の両上杉氏の反抗を受けて頓挫を強いられたが、永正9年(1512)に古河公方・足利氏と山内上杉氏の内訌が絡み合った分裂抗争が起こり、両上杉氏の提携が崩れた隙に乗じて相模国東部に進んで鎌倉を掌握、その北に玉縄城を築いて三浦半島の平定と武蔵国侵攻の拠点とし、永正13年(1516)に至って三浦義同を滅ぼし(新井城の戦い)、相模国の平定を成し遂げた。
三浦半島を制圧したのちは江戸湾(東京湾)対岸の上総国にも目を向け、真里谷武田氏に与力して上総国に出兵している。
永正15年(1518)に隠居して家督を氏綱に譲った。これにより後北条氏の本拠は小田原に移ることになるが、早雲は引き続き韮山に在城し、永正16年(1519)8月15日に韮山城で没した。従前の通説では永享4年(1432)生まれで享年88とされるが、早雲の前身が伊勢盛時であるとの説に従えば康正2年(1456)生まれ、享年64と推定される。法名は早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門。
早雲は優れた民政家でもあり、年貢率(税率)を他国よりも低く定めるなどの善政を布いた。当時の標準的な年貢率は五公五民といわれているが、早雲は四公六民としたため、領内の百姓からも慕われたという。また、永正3年(1506)には相模国西部で検地を行っており、のちに北条氏が領国に広く実施した検地政策の基礎を確立させた。
また、文明年間に京都大徳寺で禅を修めたのをはじめ、古典籍や歌道にも通じていたという。