今川義忠(いまがわ・よしただ) 1436〜1476

今川氏第6代。今川範忠の子。永享8年(1436)3月に生まれた。幼名は童王丸。通称は彦五郎。治部大輔・上総介。駿河守護。
享徳の乱に際しては、『今川記』の記述では京都(将軍)より古河公方・足利成氏の追討を命じられて出陣し、大功を挙げて感状を与えられたとされているが、これは義忠ではなく父・範忠を示しているものと思われる。しかし、義忠も範忠に従って出陣したという可能性は否めない。
寛正2年(1461)3月20日に家督相続。
応仁元年(1467)に将軍・足利義政の身辺護衛のために軍勢を率いて上洛した。この年に応仁の乱が起こっており、義忠は東軍・細川勝元陣営に加わった。この影響を受けて西軍方の斯波氏の動きが遠江国において活発になっており、それを牽制する命を受けて翌年に領国の駿河に帰国した。
この在京期間中に北条早雲の姉・北川殿を妻としたとみられている。
帰国後、西軍に与した斯波氏の討伐という政略上の名目と、自家の勢力拡大という目的を兼ねて遠江国侵攻を開始する。本格的な侵攻は文明6年(1474)からで、同年11月には遠江国府中の見付城を攻略し、城主の狩野氏を討った。しかし文明8年(1476)に遠江国人領主の横地・勝間田氏を討つために侵攻した際、4月6日に夜襲を受けて戦死した。享年41。法名は長保寺桂山宗公。流れ矢に当たって落命したと伝わる(塩買坂の合戦)。
武芸に優れるとともに和歌・連歌にも造詣深く、連歌師の宗長は若い頃にこの義忠に近侍していたという。