永正9年(1512)に三浦道寸(義同)の岡崎城、住吉城を攻め落とし、新井城へと追い込んだ北条早雲。三方に海を従えるという堅固な要害を持つ新井城を攻めるための拠点として玉縄城を築き、重圧をかける一方で、その後しばらくは軍事行動を起こさず、既に手中に収めた中相模・西相模の領国経営をぬかりなく行うことで国力の増強を図っていた。
そして永正13年(1516)7月、扇谷上杉朝興が三浦氏救援のために派兵したとの報を得るとこれを撃退、返す刀で新井城をも力攻めにし、三浦道寸・義意父子を自刃へと追い込んだ。
ここに、鎌倉時代より続く名門・三浦氏は滅亡した。