上杉朝興(うえすぎ・ともおき) 1488〜1537

扇谷上杉氏。上杉朝寧の子。上杉朝良の甥。通称は五郎。修理大夫。武蔵国河越城主。
永正2年(1505)、長享の乱において敗れた上杉朝良が和議を結ぶにあたり、その名代(後継者)に立てられた。しかし扇谷上杉氏の実権は依然として朝良が握っており、朝良の生存中はあくまでも「名代」にすぎなかった。
永正13年(1516)、北条早雲の攻撃を受けていた相模国新井城に拠る三浦義同を救援するために出兵したが、北条勢の迎撃を受けて敗走し、三浦氏は滅亡するに至った(新井城の戦い)。
永正15年(1518)に上杉朝良が没し、その遺児・藤王丸が幼少だったので、名代として扇谷上杉氏の家政を執った。
大永4年(1524)1月、相模国の北条氏綱が扇谷上杉氏の重臣・太田資高らを内通させたうえで朝興の江戸城を攻めるために進発したとき、朝興はこれを迎撃しようと出陣し、武蔵国高輪原で遭遇戦となったが敗れ、さらには江戸城をも攻略されて河越城、次いで武蔵国松山城に逃れた(高輪原の合戦〜江戸城の戦い)。
その後、山内上杉憲房や甲斐国の武田信虎と提携し、武蔵国の各地で一進一退の攻防を繰り返した。同年10月には上杉憲房の援助を受けて江戸城の奪回を試みたが、憲房が氏綱と和睦。この講和条件で河越城・岩付城が返還されたが、江戸城の回復は成らなかった。
この上杉氏と北条氏の和睦は翌大永5年(1525)2月に氏綱が武蔵国岩付城を攻めたことで破れるが(岩付城の戦い)、朝興は巧みな外交戦略で武田恕鑑や小弓公方・足利義明、越後国の長尾為景らとも結び、北条氏の包囲網を形成して対抗した。
その後はしばしば江戸地域に向けて侵攻を繰り返し、大永5年8月の白子原の合戦で勝利、大永6年(1526)6月には武蔵国蕨城を攻略するなどして押し気味に戦線を展開していたが、享禄3年(1530)6月の小沢原の合戦北条氏康に敗れたこと、天文年間に入ると小弓公方の有力支援者である里見氏や真里谷武田氏に内訌が起こったことによって小弓公方勢力が減衰、ひいては北条氏の包囲網も衰退していくことになった。
その後も武田信虎に応じて相模国に出兵するなどして抗戦を続けたが、勢力を挽回できないままに天文6年(1537)4月27日、河越城中で没した。50歳。
家督は嫡男の上杉朝定が相続したが、その朝定に「仏事を営むよりもまず、北条氏綱を退治するべし」と遺言したという。