上杉朝良(うえすぎ・ともよし) ?〜1518

上杉朝昌の二男。通称は五郎。治部少輔。
男児のなかった扇谷上杉定正の養子となり、長享の乱最中の明応3年(1494)に没した定正のあとを継ぎ、扇谷上杉氏の家督を相続した。その後の山内上杉氏との戦いでは、古河公方・足利政氏を擁した山内上杉氏に対し、後背の北条早雲今川氏親と結ぶ戦略で善戦し、永正元年(1504)9月には立河原の合戦で山内上杉顕定の軍勢を破っている。しかしその後、顕定の実弟で越後守護・上杉房能の支援を得た山内上杉勢に圧されて勢力を衰退させ、翌永正2年(1505)に居城である武蔵国河越城を包囲されて降伏した。
このときの講和条件によって建芳と号して武蔵国江戸城に隠居、家督を甥・上杉朝興に譲った。しかし、その後も扇谷上杉氏の実権を掌握していたとみられる。
永正の乱における足利政氏・高基父子の対立に際しては、顕定と協力して政氏を支持しつつもその融和に努めた。一方、高基は北条早雲と結んだために両上杉氏はしばしば侵攻を受けることとなったが、山内上杉氏と提携してよく防いだ。
のちに政氏は高基との政争に敗れて没落するが、その後も一貫して政氏を支持している。
永正15年(1518)4月21日に没した。