上杉房能(うえすぎ・ふさよし) ?〜1507

越後守護・上杉房定の三男。通称は九郎。民部大輔。
明応3年(1494)10月、父・房定が死没。房定の長男である定昌は長享2年(1488)に早世しており、二男の顕定は山内上杉氏に入嗣していたため、三男である房能が家督を相続し、越後守護職を継承した。
越後守護上杉氏は代々が領国経営を守護代の長尾氏らに委任する傾向にあったが、房能は守護の支配体制を強化するために明応7年(1498)頃より直接支配に乗り出し、租税徴収の徹底を図った。この守護による直接支配政策は、国人領主層の特権であった守護不入の権益を否定するものであったために国人領主らの不満を募らせることとなり、明応9年(1500)8月には揚北衆の本荘氏や黒川氏の反乱を招くこととなった。房能はこの本荘氏や黒川氏に対して鎮定の軍勢を派遣するが、失敗している。
永正元年(1504)10月、兄である関東管領・山内上杉顕定を援けるため、守護代・長尾能景をはじめとする越後衆を率いて関東に出兵、扇谷上杉朝良を武蔵国河越城に攻めた。
しかし永正3年(1506)に守護代が能景の子・長尾為景へと代替わりすると反目が明らかとなり、養嗣子・定実を推戴した為景に攻められ、永正4年(1507)8月7日、天水越の合戦で敗れて自刃した。