天水越(あまみずこし)の合戦

越後守護の上杉氏は、その代々が守護領国の統治を守護代である長尾氏らに委任する傾向にあったが、明応3年(1494)に越後守護職を継承した上杉房能は支配体制の強化を目論み、自身による直接支配に乗り出した。その具体的な政策は、文明年間末期に実施された検地台帳を基に土地の面積や収穫高を掌握し、租税徴収の徹底を図るものであったが、明応7年(1498)5月には国人領主層の特権であった守護不入の権益をも廃止したため、その被官である国人領主層に不満が鬱積することとなったのである。
永正3年(1506)9月に越後守護代・長尾能景が越中国般若野の合戦で戦死するとその名跡は長尾為景が相続したが、為景は恭順の姿勢を示していた能景とは違い、国人領主層の不満を代弁するかのようにことごとく房能の政策や方針に反発したため、対立は必至となったのである。

永正4年(1507)8月、為景が先手を打って軍事行動を開始した。
この経緯には、房能が家臣の讒言を信じて為景討伐の準備を始めたため、これを知った為景が機先を制して挙兵したとするものや、房能が度々の為景の諫言を容れようとしなかったために討伐に及んだとするなど諸説あるが、いずれにしても為景は8月1日に房能の養嗣子・上杉定実を擁立し、房能が拠る越後国府中の守護館を包囲したのである。
翌2日、房能はわずかの兵と共に脱出した。房能は兄で関東管領となっていた上杉顕定を頼るために関東方面へと落ち延びようとしたが、その途次の松之山郷天水越で為景方の追討を受け、7日の午後2時頃に自害したのである。

この合戦ののち、為景は敵対する揚北衆の本荘氏や色部氏らを攻めて降し、翌永正5年(1508)11月には定実が幕府より越後守護に補任され、為景もその補佐を命じられた。これは為景の行動が幕府の公認を得たということでもあった。
さらに為景は来攻した顕定をも破って(長森原の合戦)定実をも凌ぐ覇権を確立し、越後国における下克上を完成させたのである。