上杉顕定(うえすぎ・あきさだ) 1454〜1510

越後守護・上杉房定の二男。幼名は龍若丸。通称は四郎。可諄(可淳)と号す。関東管領。
寛正7年(=文正元年:1466)2月に山内上杉氏当主で関東管領職にあった上杉房顕が没すると、その後継に迎えられて山内上杉氏の当主となり、翌応仁元年(1467)に関東管領に就任した。
この頃は古河公方・足利成氏と幕府を後ろ楯とした上杉一派との間で抗争(享徳の乱)が激化しており、成氏が東上野・下野・下総をおさえ、上杉方は西上野・武蔵・相模を掌握し、利根川を境として対峙していた。そんな状況下の文明5年(1473)6月に家宰の長尾景信が病死したとき、顕定は長子である景春ではなく、景信の弟・忠景に家督を相続させたため、これを不満とした景春が叛旗を翻すに至った(長尾景春の乱)。
景春は成氏と結び、顕定を取り巻く情勢は険しくなるが、文明10年(1478)5月には成氏と和を結び、ここに古河公方と上杉一派の長きに亘る戦いは終わり、やがて成氏と幕府の和睦も成った(都鄙合体)。
その後、長享2年(1488)から永正元年(1504)にかけて扇谷上杉定正朝良と対立するようになり、周辺諸勢力を巻き込んで相模国実蒔原、武蔵国須賀谷原高見原立河原・河越城などで一進一退の攻防を続けた(長享の乱)。
永正4年(1507)8月に顕定の弟で越後守護の上杉房能が越後守護代・長尾為景らに攻め殺される(天水越の合戦)と、顕定は為景を討つべく越後国に出兵し、一度は為景を越中国へと逐ったが、永正7年(1510)6月20日、再起した為景軍と越後国長森原に戦って敗死した(長森原の合戦)。享年57。法名は海竜寺可諄皓峯。
系図等では顕定の官途を民部大輔や右馬頭と記すものがあるが、これは誤りで、別人の官途を混同したものと思われる。当時の武家社会では官途を記すあるいは名乗るのが通例であるが、顕定の受給・発給文書において官途名を記したものは皆無であることから、生涯を無官で通したことが明らかである。