長享2年(1488)2月の相模国実蒔原の合戦で敗れた山内上杉顕定は、養子・憲房と共に同年6月、扇谷上杉定正の拠る武蔵国河越城を攻略するべく2千の軍勢を率いて武蔵国鉢形城より侵攻を開始した。
これを迎撃するべく、古河公方・足利政氏および長尾景春を味方にした上杉定正はその養子・朝良と共に河越城を出て、都幾(とき)川流域に広がる須賀谷原付近に布陣。その兵は7百余騎という。
8日には山内上杉勢が扇谷上杉方の防衛拠点のひとつである武蔵国松山城を攻めており、それに関連して須賀谷原で小規模な合戦が起こっている。
ついで6月18日の朝より、須賀谷原一帯で大規模な合戦が繰り広げられた。
扇谷上杉勢の先陣は初陣の朝良隊であったが、台地の低部で山内上杉勢に逆落としに攻撃をかけられて崩されるという不利な状況になったが、長尾景春隊が横槍を入れたために山内勢も浮き足立ち、そこを主力部隊を率いた定正が突き崩して勝利した。
この合戦で死んだ者は7百余、馬は数百という激戦だったと伝わる。