古河公方・足利成氏に対しては共同行動を取ってきた山内上杉顕定と扇谷上杉定正のいわゆる『両上杉』は、文明18年(1486)7月、定正が重臣の太田道灌を殺害したことによって確執が深まり、ついには長享元年(1487)11月に至って武力抗争に及ぶこととなった(長享の乱)。
長享2年(1488)1月、定正が足利成氏および長尾景春と結んだためにそれまでの均衡が破られ、対立は決定的となった。主・道灌を殺された恨みから扇谷上杉氏を去った将士たちの多くは山内上杉氏に流れ、そのなかには道灌の遺児・太田資康の姿もあった。
上杉顕定はこれを勢力拡大の好機と捉え、2月5日に機先を制して定正の本拠地である相模国糟屋を襲うべく1千余の軍勢を率いて相模国の実蒔原まで出陣。これを迎え撃とうと、定正も軍勢2百余を率いて河越城から出陣、そこで遭遇戦となった。
しかし兵力に劣る定正方は奮戦して顕定方を破り、勝利をおさめている。