上杉定正(うえすぎ・さだまさ) 1443?〜1494

扇谷上杉持朝の三男。修理大夫。範亨・贋釣斎と号す。
享徳年間より始まる関東の争乱(享徳の乱)において、扇谷上杉氏の当主である甥・政真が、文明5年(1473)11月に古河公方・足利成氏と武蔵国五十子に戦って敗死したため、遺臣に擁されて急遽本家を継いだ。
文明8年(1476)に叛乱を起こした長尾景春に対しては、山内上杉顕定と協調して対抗した。
この長尾景春の乱鎮定において、家宰・太田道灌らの働きを得て関東管領家の山内上杉顕定と並ぶほどまでに勢威を伸ばした。
しかし扇谷・山内両上杉の安定化を図ろうとした道灌の真意を疑ったことや、道灌の名声を妬むようになったところへ、道灌さえ亡き者にすれば両上杉の不和は払拭できると顕定に挑発され、文明18年(1486)7月26日、相模国糟屋の館で道灌を謀殺した。
だが思惑とは異なり、山内上杉との関係は悪化。以後はかつて敵対していた長尾景春や古河公方と結び、堀越公方・足利政知を支持する山内上杉氏との対立を深めた。
長享2年(1488)2月の相模国実蒔原、6月の武蔵国須賀谷原、11月には武蔵国高見原などで衝突、寡兵ながらも巧みな戦略で山内上杉勢を破るが、明応3年(1494)10月5日、顕定との決戦を前に没した。荒川(現在の元荒川)を渡ろうとして落馬し、それが原因となったもという(高見原の合戦:その2)。52歳。享年を49歳とする説もある。法号は護国院殿大通範亨大禅定門。