足利政氏(あしかが・まさうじ) 1466〜1531

古河公方の2代目。足利成氏の嫡男。号は道長。従四位下・左馬頭。
文明14年(1479)に室町幕府と古河公方の和睦(都鄙合体)が成立したのちより、父・成氏に代わって家政を執るようになった。
長享元年(1487)より始まった山内上杉氏と扇谷上杉氏の分裂抗争(長享の乱)においては、はじめ扇谷上杉定正に擁立されて関東管領・山内上杉顕定と戦ったが、明応3年(1494)11月の定正の死を契機として山内上杉陣営に与すようになった。
明応6年(1497)、父・成氏の死によって、名実ともに古河公方の地位を継承する。
永正2年(1505)に長享の乱が終息したのちは両上杉氏と提携し、関東に勢力を広げつつあった北条早雲に対抗しようとしたが、早雲と結んだ子・高基と意見を異にしたため不和となった。
この高基との対立は永正の乱と呼ばれる争乱を引き起こすこととなり、永正3年(1506)に高基を下野国に逐ったのちは、北関東の大名や国人領主らを巻き込んで闘争を続けることとなった。
この父子分裂は両上杉の仲介によって1度は和解したが、永正7年(1510)の上杉顕定の死を契機とした上杉顕実(政氏の実弟)・上杉憲房の闘争や、永正9年(1512)4月に起こった下野国宇都宮氏の内訌(宇都宮錯乱)などと結びついた結果、足利政氏と上杉顕実、足利高基と上杉憲房という陣営が形成され、対立が再燃した。
高基と結んだ上杉憲房が永正9年6月に上杉顕実を駆逐して勢威を増すと、政氏も間もなく御座所としていた下総国古河を退去して下野国の小山氏を頼り、下野国小山城(別称:祇園城)に入った。しかしこの小山氏も永正13年(1516)12月に至って高基陣営に鞍替えしたため、上杉朝良の庇護を得て武蔵国岩付城に移った。こののち、出家して道長と号している。
永正15年(1518)4月に朝良が没したのち、武蔵国太田荘久喜の甘棠院に隠退。政氏のこの隠退を以て永正の乱は終息した。
享禄4年(1531)7月18日、同所で没した。享年66。法名は甘棠院吉山道長。