上杉顕実(うえすぎ・あきざね) ?〜1515

古河公方・足利成氏の子。足利政氏の弟(一説には政氏の子)。通称は四郎。第19代関東管領。
永正2年(1505)には第18代関東管領・山内上杉顕定の養嗣子になっていたようであり、顕定が永正7年(1510)6月の越後国長森原の合戦で討死すると、山内上杉氏の家督と関東管領職を相続する。
兄の政氏は永正3年(1506)より子の足利高基と対立しており、顕実は政氏方の立場であったが、同じく上杉顕定の養子となっていた上杉憲房は高基を支持したため、関東地方は諸領主を巻き込んで政氏・顕実派と高基・憲房派に分裂して抗争する事態になったばかりか、顕定没後の混乱に乗じて、伊豆国から関東を窺っていた北条早雲(伊勢宗瑞)が進出してくるなど、関東地方は混乱のるつぼと化した(永正の乱)。
顕実は総社長尾氏の長尾顕方の補佐を得て武蔵国鉢形城を居城としていたが、永正9年(1512)6月に憲房の重臣である足利長尾氏の長尾景長によって鉢形城を攻略され、実家である下総国古河に逃れた。
永正12年(1515)に没した。癩病を患い、療養のために赴いた信濃国諏訪の温泉で没したともいう。