越後守護代・長尾為景は永正4年(1507)8月、主君である越後守護・上杉房能を攻めて自害に追い込み(天水越の合戦)、房能が養子としていた上杉定実を新守護として擁立した。が、これを怒った房能の兄で関東管領の上杉顕定が永正6年(1509)7月末に関東軍8千の軍勢を率いて越後国に侵攻した。
これに応じて為景の一族である上田長尾氏の長尾房長が顕定に同調したため、坂戸城が顕定勢の関東軍の拠点となった。この動きを見た本荘房長・色部昌長・竹俣清綱ら揚北衆や上条定憲らも顕定に味方し、越後国内の各地で為景に与した勢力を破った。
8月には上杉定実・長尾為景は敗れて越中国へと逃亡、顕定は越後の府中(現在の上越市)に入り、越後国を統括するに至る。
対する為景は国内の諸勢力や近隣諸国の援助を受けて水面下で勢力の糾合を図った。そして永正7年(1510)4月、為景は軍勢を立て直して越中国から佐渡国へと渡り、20日に蒲原津(現在の新潟市)に上陸して顕定との決戦に臨んだ。
この報に接した顕定は府中を進発、それに歩調を合わせて顕定方諸将も戦線を拡大する。が、勢いは為景方にあり、上条定憲の寝返りなどもあって進軍を有利に展開した。6月12日には顕定の養子・上杉憲房の軍勢を破って妻有荘まで後退させている。
度重なる敗戦や、留守にしていた関東で北条早雲や長尾景春の動きが活発になるなどしていたために顕定勢は浮き足立ち、関東への撤退を開始する。そうした動きの中で、坂戸城主の長尾房長までもが為景方に寝返り、関東軍は退路を遮断されることとなった。
そして6月20日、坂戸城北方の六万騎山麓の長森原で追撃を受け、野戦を展開することとなった。このときの軍容は顕定軍8百余騎、為景軍5百余騎という。数に劣る為景軍であったが、激戦の末に高梨政盛が顕定の首級を挙げた。顕定の敗死により関東軍は総崩れとなり、散り散りになって落ち延びたという。
この合戦により、為景は名実共に越後の支配者となり得たのである。