本荘房長(ほんじょう・ふさなが) ?〜1539

越後国の国人領主。本荘時長の子。揚北衆。対馬守。岩船郡小泉荘本庄(本荘)城主。
永正5年(1508)、父・時長より家督を譲られる。
永正6年(1509)、越後国に侵攻してきた関東管領・上杉顕定に呼応して上杉定実長尾為景らと戦って功を挙げた。
上条定憲の挙兵をきっかけとして起こった越後享禄・天文の乱において、享禄4年(1531)の一揆契約(越後国人衆軍陣壁書)に名を連ねて長尾為景に与していたが、天文2年(1533)に定憲が再挙兵したときには定憲方についた。
揚北衆の中でも中心的な人物であり、天文4年(1535)に色部氏家中で家臣の逃亡事件が起こった際には、享禄4年8月に近隣の色部憲長・鮎川清長・小河長基とで結んだ相互協約に基づいて、その解決に尽力している。
天文8年(1539)、伊達時宗丸入嗣問題に際しては反対派であったため、同年の秋頃に伊達氏と連合して侵攻してきた賛成派の中条藤資の軍勢を防ぎきれず、出羽国大宝寺へと退去した。このとき、弟・小河長資と鮎川清長も伊達氏に降って房長の所領を攻めたため、鎮圧すべく戻る最中の11月28日、病気によって急死した。