越後国では、永正4年(1507)に守護代・長尾為景が守護・上杉房能を討った(天水越の合戦)のち、永正6年(1509)の房能の兄・山内上杉顕定の来攻と敗死(長森原の合戦)、永正10年(1513)には為景が新守護として擁立した上杉定実と為景の抗争などといった戦乱が続いたが、その結果、定実を手中に抑えた為景の覇権が確立したかにみえた。
しかし守護の公銭方奉行・大熊政秀が、為景と上杉定実一族の上条定憲の離反を謀った結果、享禄3年(1530)10月、定憲が拠地である刈羽郡鵜川荘の上条城にて叛旗を翻した。
この事態を受けた為景は11月に鎮圧のため上条に侵攻し、大熊政秀をはじめとする反為景派を逐った。しかし上条氏は守護・上杉定実の実家であるため、為景も直接的に征討することはできなかったようである。
この上条定憲の挙兵は上・中越に留まらず、阿賀北に割拠する反為景勢力にも波紋を及ぼすこととなり、『長尾為景対上条定憲』という当初の構図を越えて『長尾為景対反為景派の国人領主』、さらには『(為景や定憲を後ろ楯とした)国人領主対国人領主』といった内戦をも含む、混沌とした大乱に発展することになったのである。
享禄4年(1531)初頭には為景と本荘房長・色部憲長・鮎川清長・新発田綱貞・五十公野景家・安田長秀・水原政家・竹俣昌綱・加地春綱・黒川清実・中条藤資ら揚北衆諸氏、刈羽郡の北条松若丸・斎藤定信、上杉氏一門の山本寺定種・長尾(上杉)景信らが『越後国人衆軍陣壁書』と呼ばれる一揆契約(軍事同盟)を結び、さらには将軍・足利義晴の政治的援助を得たことによって戦況を有利に展開するかと思われたが、7月に至って義晴が近江国に逐われると、幕府と強いつながりを持っていた為景の求心力も不安定なものとなる。
その結果、為景から離反する者や、領主間同士で個別に協定を結んで日和見的に状況を観望する者らが相次ぐようになったことで一揆契約は有名無実化し、為景を取り巻く情勢は厳しいものとなっていった。
天文2年(1533)9月末、上条定憲が再び挙兵し、上条城に程近い北条城の攻撃に及んだ。この定憲方の軍勢は撃退されたが、これをきっかけとして戦線の拡大を招くこととなる。
天文3年(1534)に為景が信濃国の高梨氏に援助を要請したのに対し、定憲方には中越地方の上田長尾氏が与するなど、一進一退の攻防戦が続けられた。
また、享禄4年の一揆契約において為景に与した揚北衆の多くも、この頃には定憲方についていた。
為景は天文4年(1535)6月に後奈良天皇より御旗を、翌天文5年(1536)2月には内乱鎮定の綸旨を賜ったことで自らを『官軍』と位置づけ、争乱鎮定の正当性を内外に誇示しているが、戦況の好転には結びつかなかった。
天文3年5月の刈羽郡納下の合戦、天文4年5月の魚沼郡下倉城の戦いなど方々で戦闘が行われているが、この越後享禄・天文の乱においての最大の激突と見られているのが、天文5年4月の頚城郡夷守郷三分一(さんぶいち)原での合戦である。この戦いの勝敗は諸書によって見解が分かれており、不詳であると言わざるを得ない。しかし双方共に少なからず打撃を蒙っており、かなりの激戦であったことを窺い知ることができる。
この合戦の後の8月に為景が守護代職を隠退、嫡子の晴景に譲った。しかしこの家督交代劇も争乱収拾の決め手には成り得ず、隠退したとはいえ、未だ政権の中心に君臨していた為景は、敵対勢力の切り崩し工作に奔走する。この頃の争点は魚沼郡北部となり、敵対勢力の主力は上田長尾氏の長尾房景に変わりつつあった。
国内情勢は泥沼化し、戦況の好転は期待できなかった。窮した為景は、婚姻関係による講和体制を打ち出す。揚北衆の抑えとして加地荘の加地春綱に娘を嫁がせ、上田長尾氏にも娘を嫁がせる約束で事態の収拾を図ったと見られている。この婚姻政策が功を奏したためか、次第に為景と揚北衆、上田長尾氏との緊張関係は緩むことになった。
また、守護代職を譲られた晴景も、国主として守護・上杉定実を復活させた。このことによって政情は好転を見せ、天文7年(1538)までに揚北衆の有力武将である色部勝長・鮎川清長・本荘房長・小河長資・竹俣清綱らが帰順したのである。
こうして8年に亘る越後享禄・天文の乱は一応の終息を迎えるに至ったが、上杉定実が守護に復帰したことにより、その後継をめぐって『伊達時宗丸入嗣問題』を発端とする新たな内乱が引き起こされることとなるのである。