中条藤資(なかじょう・ふじすけ) ?〜1573?

越後国の国人領主。揚北衆。三浦和田氏の後裔で、中条定資の子。弾正左衛門尉・越前守。蒲原郡奥山荘鳥坂城主。
上杉謙信麾下の『七手組大将』のひとりとして名を馳せた武将。
永正4年(1507)、越後守護・上杉房能と守護代・長尾為景が対立すると為景に味方し、反対派の本荘時長・色部昌長らと戦った。この抗争は為景陣営が勝利し、翌年には房能派の鎮圧が成されたが、この際には為景と反対派諸将を仲介して和睦に尽力している。
為景と上杉定実の確執が明らかとなった永正10年(1513)には為景と起請文を交換し、翌年まで続く抗争において為景の勝利に貢献した。
享禄3年(1530)より始まる越後享禄・天文の乱でははじめ為景方に与し、為景の主導と目される享禄4年(1531)1月の『越後国人衆軍陣壁書』と呼ばれる一揆契約状にも名を連ねているが、天文4年(1535)の夏頃には上条定憲方に鞍替えしており、特に外交・調略面において為景勢力の切り崩しに奔走している。
その一方で陸奥国の伊達氏とも誼を通じており、天文7年(1538)には上杉定実の後継として伊達時宗丸(伊達稙宗の三男:のちの伊達実元)の入嗣(伊達時宗丸入嗣問題)を積極的に推進し、翌年には稙宗の意を受けて伊達氏の越後国侵攻を主導した。しかしこれが他の揚北衆や為景との緊張を高めることとなり、朝廷から綸旨を得た為景や近隣領主らからの攻撃を受け、天文9年(1540)9月末に本拠である鳥坂城を攻略されて屈服した。しかし天文11年(1542)、陸奥国の中南域で伊達稙宗と伊達晴宗を両極とした大規模な内訌(伊達氏天文の乱)が勃発、その余波が越後国内の揚北にまで波及すると再び稙宗方に与したが、他の揚北衆は晴宗派であったために孤立することとなった。
天文16年(1547)に越後守護代・長尾晴景とその弟・長尾景虎(上杉謙信の初名)が反目すると謙信に接近し、以後も重く用いられた。
永禄4年(1561)の川中島の合戦:第4回に出陣して『血染めの感状』を賜っており、永禄11年(1568)に本荘繁長が謙信に叛いたとき(本荘繁長の乱)には和睦の斡旋に尽力し、その忠節を「一世中は忘失あるまじく」と賞賛されている。
天正元年(1573)9月に没した。天正2年(1574)に死没したとする説もある。