永禄11年(1568)3月、越後国岩船郡本庄城主・本荘繁長が甲斐国の武田信玄と結び、突如として上杉謙信に叛いた。謙信が越中国へ出征している最中のことである。
繁長が謀叛に及んだ理由は、戦功に対する恩賞の不満や、信玄に唆されたともいわれる。繁長は越山と称される関東地方への出征や川中島の合戦などに従軍して戦功を挙げているが、これらの出陣は相模国の北条氏あるいは甲斐国の武田氏らの圧迫を受けた諸氏の回復のためのもので、戦功を挙げたとしても自身の所領増大には繋がらない「義戦」であった。その不満を信玄に衝かれたものであろうか。
繁長は越後国府の春日山に在府していたようであるが、居城の本庄城に帰還、叛意を明らかにした。これと併せて近隣の中条藤資・色部勝長・黒川実氏・鮎川盛長らを味方に誘っているが、いずれからも同意を得ることはできなかった。とくに中条藤資は繁長の叛意を謙信に通報し、謙信もこれによって確信を得たものと思われる。
3月25日に越中国の陣を引き払って帰国した謙信は、その対応に乗り出す。4月中旬には安田能元と岩井信能を信濃国飯山城に派遣し、信越国境の警備を強化した。これは繁長と武田信玄の連携を断つためである。5月になると繁長は鮎川氏の大場沢城を攻撃しているが、謙信は鉄砲の玉薬を送るなどの支援をしている。
一方の武田信玄は、陸奥国会津の蘆名盛氏や出羽国米沢の伊達輝宗、庄内の大宝寺義増らに繁長の支援を呼びかけ、本願寺を通じて越中国に椎名康胤や勝興寺に蜂起するように働きかけている。そして自らは7月から8月にかけて飯山、ついで関山へと軍勢を動かして信濃国方面から越後国府を窺って謙信を牽制した。
対する謙信は国府の春日山城に在って動かず、関山方面への抑えとして上杉景信・山本寺定長らを派遣して備えた。謙信は繁長ではなく、その背後にある信玄の動きを注視していたのである。
謙信自ら繁長征伐に出陣したのは10月20日であった。このとき養子・顕景(のちの上杉景勝)も従軍しており、これが初陣である。上杉軍は11月7日より本庄城の包囲態勢を布き、間もなく戦端が開かれた。上杉軍は猛攻をもってたちまちのうちに本庄城の外曲輪を討ち破り、この勢いに落城も間近と思われたが、謙信はそれ以上の力攻めをしようとはせず、四方に付城を構築して持久戦の構えを取ったのである。
本丸に追い籠められた本荘勢は城中から寄せ手に向けて弓や鉄砲を撃ちかけるなど士気は盛んであったが、もはや独力での抗戦は限界であることを悟っていたのであろう、12月5日に武田氏と同盟関係にある北条氏が沼田に出陣すると、そのまま上田荘まで兵を進めてほしいと依頼している。上田荘は越後国から関東へ通じる重要な拠点で、ここを脅かされれば謙信も無視できないからである。
しかし時をほぼ同じくして、繁長が恃みの綱としていた信玄は、甲駿相三国同盟を破棄して越後国とは反対の今川氏領駿河国へと侵攻を開始していたのである(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。
信玄との盟約を反古にされて孤立無援となった繁長であったが、事態の打破を窺っていた。この12月下旬までには蘆名氏や伊達氏に謙信との和睦の斡旋を依頼しているが、その反面で翌永禄12年(1569)1月9日の深夜には夜襲を仕掛けて謙信の有力被官である色部勝長を討ち取っている。しかし、この夜襲も大局を動かすには至らず、その後の戦局は滞ったのである。
しかし「落城間近」であった前年11月半ばからの長陣に上杉陣中でも厭戦気分が高まり、謙信も繁長の赦免を認めざるを得ない時期となっていた。
謙信は永禄12年1月中頃に家臣の後藤勝元を蘆名氏・伊達氏へと遣わしているが、この勝元は「繁長を赦免してもよい」という謙信の内意を聞かされていたともいわれ、2月頃には飛騨国の三木良頼・姉小路自綱父子からも「伊達・蘆名両氏の仲介もあることであり、繁長が確かな人質を差し出せば赦免するべきだ」とする旨の書状が謙信に宛てて届けられている。また、2月29日に謙信は関東の里見義弘・太田資正に、繁長を赦す覚悟であることを伝えており、これら友好関係にある諸氏の賛同を得た謙信は、長男の千代丸(のちの本荘顕長)を人質として受けることを条件として3月末頃に繁長の赦免を決め、その降伏を受け入れたのであった。
赦免された繁長への懲罰として所領の剥奪や削減があったのかは不詳であるが、上杉家中における家格や席次を失ったことは明らかであり、以後の繁長は謙信の在世中は活躍の場を与えられなかったのである。