里見義弘(さとみ・よしひろ) 1525〜1578

安房国の戦国大名・里見義堯の嫡男。通称は太郎。左馬頭・上野介・陸奥守。
天文8年(1539)11月、鶴岡八幡宮の神前で元服した。
時期は不詳であるが、小弓公方・足利義明の遺児で鎌倉の太平寺という尼寺の住職となっていた青岳尼を還俗させて妻に迎えた。この青岳が没したのち、簗田高助の娘を後妻に迎えたことで足利藤氏・藤政・家国と義兄弟の間柄となる。
父・義堯が本格的に上総国経略に乗り出した天文13年(1544)頃より上総国佐貫城に拠り、海路からの北条氏の侵入に備えた。
弘治2年(1556)10月頃(時期には異説あり)には総大将として三浦半島に侵攻。
永禄4年(1561)、越後国から関東地方に向けて出兵(越山:その1)してきた上杉謙信に応じ、里見勢の大将として小田原城攻めに参陣した。
永禄5年(1562)頃、父・義堯の隠居に伴って家督を相続したとみられているが、実質的には実権を握ったままの義堯に後見されていたようである。
永禄7年(1564)1月、太田資正太田康資と結んで下総国の国府台で北条氏康と戦って(国府台の合戦:その2)敗れたため勢力を大きく減退させたが、永禄10年(1567)の三船台の合戦に大勝して再び勢力を回復した。
永禄11年(1568)末から北条氏康が甲斐国の武田信玄と交戦状態となり、房総半島への防備が手薄になったことを好機として下総国に侵攻して勢力を伸ばした。
永禄12年(1569)閏5月、北条氏が武田氏への対抗策として上杉謙信と越相同盟を結ぶと、これに反発して謙信との関係を断ち、武田信玄と同盟を結んで北条氏に対抗した。しかし元亀2年(1571)10月の氏康没後、後継の北条氏政が政策を転換して信玄と和睦すると里見氏も再び謙信と結び、徹底して北条氏に敵対する姿勢を貫いた。
しかし元亀年間以降、恃みとしていた謙信の関東地方における影響力が薄くなると北条氏の攻勢を支えきれなくなり、天正5年(1577)に至って和睦した。
天正6年(1578)5月20日、上総国久留里城にて病没した。54歳。酒好きであったための中風とされる。法号は瑞龍院殿在天高存居士。
領国の統治においては落書による訴えを認め、領民からの意見の吸収に努めたという。ただし、事実であっても名を挙げての悪口を禁じること、相手がある訴訟に関しては評定所に申し出ること、などの条件が付帯されている。