北条氏政(ほうじょう・うじまさ) 1538?~1590

北条氏康のニ男。母は今川氏親の娘。幼名は松千代丸か。通称は新九郎。従四位下・左京大夫。号は截流斎。
天文21年(1552)に兄が死去したため嫡子となった。
天文23年(1554)12月、武田氏・今川氏との甲駿相三国同盟締結により武田信玄の娘を妻に迎える。
永禄2年(1559)12月に父・氏康より家督を譲られ、氏康の後見を受けて家政を執った。
家督相続後は氏康の政策路線を継承して関東経略に意を注ぎ、関東の反北条勢力の要請を受けて越山(関東出兵)してくる上杉謙信や、常陸国で勢力を伸ばす佐竹義重らを相手に鎬を削った。
永禄7年(1564)1月、父・氏康と共に国府台の合戦:その2において里見義弘の軍勢を破った。
同年7月には太田資正の拠る武蔵国岩付城を攻略し、武蔵国をほぼ平定した。また永禄9年(1566)、上杉方であった上野国金山城主・由良成繁を服属させ、北関東における基盤を固めた。
永禄11年(1568)末からは武田信玄が徳川家康と呼応して今川氏真の領国に侵攻したため、今川氏に援軍を派遣して反武田の旗幟を鮮明にした(薩埵峠の合戦)。それに伴って信玄への牽制策として謙信と講和し、永禄12年(1569)閏5月に越相同盟を結ぶ。
この上杉氏との和合は、隠居でありながらもなお影響力の強い氏康の意向を受けたものとみられる。しかし元亀2年(1571)10月に氏康が没したことで氏政が名実共に北条氏の当主となり、かねてより親武田派だった氏政は謙信と絶つとともに12月に再び信玄と結び、以後は北関東への勢力拡大に専念し、天正2年(1574)閏11月には簗田氏を服属させ、天正3年(1575)12月には小山氏を逐うなど、下総国北部から下野国に勢力を拡大した。
天正5年(1577)1月には妹を武田勝頼に嫁がせ、その関係をより強固なものとする。
天正6年(1578)に謙信が没したのち上杉氏内部で家督争い(御館の乱)が起こった際、氏政は弟・上杉景虎を支援したが、武田勝頼は上杉景勝に与力したため、武田氏との同盟関係も破れることとなる。
天正7年(1579)9月には徳川家康と和して武田勝頼を挟撃している。
天正8年(1580)、19歳の嫡子・氏直に家督を譲って隠居、截流斎と号して後見した。
天正10年(1582)の武田氏の滅亡、織田信長の横死などの混乱に乗じて上野国を版図に加え、関東一円に強大な勢力を築き上げた。しかし天下統一事業を進める羽柴秀吉の関東惣無事令を受け入れなかったこと、上洛要請に応じなかったことなどから関係が険悪なものとなり、秀吉の命令によって全国より集められた軍勢による討伐を受けることになる(小田原征伐)。
これに対して果敢に防衛を試みるも、総勢22万といわれる大軍勢に抗しきれず、天正18年(1590)7月5日に降伏。7月11日、小田原征伐の責を負わされて弟・北条氏照と共に医者・田村安栖の宿所で自刃した。53歳。法名は慈雲院殿勝巌宗傑大居士。