北条氏照(ほうじょう・うじてる) 1540?〜1590

北条氏康の三男であるが、天文21年(1552)に早世した兄がいるために二男と表記されることが多い。母は今川氏親の娘で、北条氏政氏邦氏規の同母兄弟。幼名は藤菊丸。通称は源三。従五位下・陸奥守。武蔵国滝山・八王子城主。
天文15年(1546)の4月の河越夜戦の後、山内上杉氏に属していた武蔵国由井城主・大石定久が氏康に降るとその養子に迎えられて大石源三、あるいは由井源三と名乗り、永禄2年(1559)11月には由井の領主として朱印状を発給していることから、これ以前に大石氏の家督を相続したとみられるが、永禄11年(1568)末までには北条に復姓している。
戦上手として名を馳せただけでなく、永禄11年の暮れ頃より上杉謙信との越相同盟締結に際しても奔走するなど、外交面においても活躍した。また、従属させた領主(他国衆)らに対する取次を多く務め、主家と従属勢力の間の調整役でもあった。
古河公方の去就をめぐっての抗争においては、永禄11年には下総国栗橋城を接収して拠点と定めて反北条勢力に備え、天正2年(1574)には最後まで反抗していた簗田晴助の拠る下総国関宿城の攻略にも寄与した(関宿城の戦い:その3)。これにより古河公方の権力は北条氏の支配下に置かれることとなり、氏照がその後見的地位に就くこととなった。
天正3年(1575)には下野国の豪族・小山秀綱を逐って下野国小山城(別称:祇園城)を領して拠点化し、北条氏の北関東侵出を主導する役割を果たしている。
天正10年(1582)、本能寺の変による織田信長横死の混乱に乗じて弟・氏邦とともに上野国、ついで信濃国の小県・佐久郡に出兵し、所領拡大に貢献した。
天正16年(1588)前後、八王子城を築いて移った。
天正18年(1590)の小田原征伐には小田原に籠城、竹之下口を守ったが、降伏開城後の同年7月11日、兄・氏政とともに責を負って自刃した。51歳か。法名は青霄院殿透岳宗関大禅定門。