関宿(せきやど)城の戦い:その3

永禄11年(1568)8月から本城の下総国関宿城に北条氏からの攻撃を受けていた簗田晴助であったが、同年12月、それまで北条氏・今川氏と相互に同盟(甲駿相三国同盟)を結んでいた武田氏が今川氏に攻撃を仕掛けると(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)、北条氏は今川氏との同盟を維持して武田氏と敵対することになった。
一方の今川氏は武田氏と敵対していた上杉氏との提携を模索しており、北条氏も上杉氏とは敵対関係にあったが、こうした情勢を受けて上杉氏との関係改善に方針を転換したことによって上杉氏の与同勢力であった簗田氏への攻撃も停止され、関宿城は落城を免れたのである(関宿城の戦い:その2)。
北条氏が上杉氏に和睦を求めたのは武田氏に対抗する策としてであり、それを推進したのは北条氏の当主・北条氏康であった。しかし永禄12年(1569)6月に上杉氏との間に結ばれた越相同盟は北条氏が期待したようには機能せず、上杉氏と融和するきっかけとなった今川氏は、すでに滅亡していた。そして氏康も元亀2年(1571)10月に死去し、嫡男の北条氏政が名実ともに北条氏当主の地位を継承したが、この氏政は妻を武田氏から迎えていたこともあって親武田であった。このため、同年末には越相同盟は解消され、北条氏が関宿城攻撃を思い止まる理由は消滅したのである。

この後、関宿城は天正2年(1574)1月には北条氏からの攻撃を受けており、1月16日には足利藤政が太田資正を通じて常陸国の佐竹義重に救援を要請している。この藤政はかつて北条氏によって古河公方次期家督の地位を廃された足利藤氏の同母弟で、簗田晴助の妹の子、つまりは晴助の甥である。
また、同年2月に上杉謙信が関東に出陣しているが、謙信は上野国新田金山城主・由良成繁への攻撃や木戸忠朝の拠る武蔵国羽生城への助勢など上野国内での戦闘に終始し、4月末頃には帰国してしまった。この動きを見た北条氏は関宿城および支城の水海城へ矛先を集中し、4月下旬には北条氏政が、5月上旬には北条氏繁が下総国へ出陣。しかし同じ頃に下野国の宇都宮広綱と佐竹義重が、かつて宇都宮氏被官で北条勢力となっていた皆川広勝や壬生義雄を攻撃するに及んで、氏政・氏繁らは皆川・壬生氏らを救援するため下野国に転進したが、抑えの兵は残されて圧迫は続けられたようである。
そして8月になると、謙信が再び越山してきた。だがこの謙信出馬も、関宿城にとっては直ちに事態の好転につながるものではなかった。恃みとした上杉軍は上野国で由良氏と戦っていてそれ以上は進まず、簗田氏は城内で北条氏への内通者を成敗し、宇都宮氏へ宛てて窮状を訴えるとともに援助を求めている。
一方の北条勢は、北条氏照が栗橋城に入って上野・武蔵方面からの上杉軍侵入を扼し、氏政も再び関宿攻めの陣に戻り、水海城に対して3つの付城を築いて圧迫を加え続けていた。
上杉勢は11月7日に至って利根川を越えて武蔵国に侵入し、鉢形・松山・忍・深谷の城下を放火して牽制しつつ進撃を続けるつもりであったようだが、「北条勢が撤退した」との情報を受けると、再び上野国に軍勢を戻して新田金山城攻めに転じた。しかしこれは武蔵国深谷城主・上杉憲盛の策謀であり、簗田氏から「北条勢は未だ関宿を攻めている」との注進を受けて再び軍勢を転じるといった一幕もあり、関宿城を取り巻く情勢は芳しくなかったのである。
謙信は11月23日に下野国(沼尻か)で簗田晴助と小山秀綱を招いて談合し、ついで佐竹義重と今後の戦略を相談したとみられるが、意見がまとまらず、関宿城のことは佐竹義重に任され、謙信は古河・栗橋・館林などの攻撃に向かったのである。上杉憲盛の偽情報を受けたのちに新田金山城攻めに向かっていたことからも、謙信の越山の目的は関宿救援ではなく、上野・武蔵国内の拠点の確保ならびに北条勢の牽制であったことがうかがえる。

上杉軍の後詰が望めなくなった関宿城は、ついに北条氏の軍門に降って閏11月19日に開城した。関宿城の救援に赴いていた佐竹・宇都宮氏は北条氏と和議を結び、簗田晴助・持助父子は水海城へと退去し、北条氏に従属することになったのである。