小山秀綱(おやま・ひでつな) 1529?〜1603?

下野国小山城(別称:祇園城)主。小山高朝の嫡男。結城晴朝の実兄。通称は小四郎。名を氏頼・氏秀とも。弾正。
天文年間末期から永禄年間初頭の間に父・高朝から家督を譲られたと見られる。
永禄3年(1560)から翌年にかけて上杉謙信北条氏康を討伐するために関東に侵攻(越山:その1)してきた際には謙信に属したが、古河公方の擁立問題で謙信と対立するようになり、北条方への傾斜を強めた。
その後は北条氏の与党となり、永禄6年(1563)4月には3度目の越山を果たした上杉謙信や佐竹義昭宇都宮広綱らによって小山城を攻められて降伏、永禄7年(1564)には北条勢に攻められて帰属、永禄8年(1565)には謙信に従い、永禄9年(1566)には再び北条氏に従属するなど、上杉氏と北条氏という2大勢力の間にあって従属と離反を繰り返しつつ勢力を保持した。
天正2年(1574)または3年(1575)に北条勢の攻撃を受けて小山城を開城し、その後は常陸国の佐竹義重を頼るなど没落していたが、天正10年(1582)に織田信長の重臣・滝川一益が関東に入部すると小山城は北条側から一益に引き渡され、同年5月に一益より小山城を返付されて城主に返り咲いたが、実質的には小山城は北条氏の属城のままであり、秀綱も傀儡の城主だったと目される。
天正18年(1590)の小田原征伐に際しては、参陣しなかったため羽柴秀吉に所領を没収された。
慶長8年(1603)頃、小山で没したと伝わる。