佐竹義昭(さたけ・よしあき) 1531〜1565

常陸国佐竹氏第17代当主。佐竹義篤(16代)の嫡子。母は小田成治の娘。妻は岩城重隆の娘。幼名は徳寿丸。通称は次郎、初名は義従(よしより)。出家号は源真。従四位下・左近衛少将・右京大夫・修理大夫。常陸国太田城主。
天文14年(1545)、父・義篤の死没を受けて家督を相続。この頃より被官の江戸忠通と断続的に戦ってこれを破り、天文20年(1551)6月に服属させている(常陸天文の乱)。
同年、北条氏康の圧迫を受けていた関東管領・上杉憲政から、上杉の家名と関東管領職を譲るという条件で庇護を求められた。佐竹氏第12代の当主・佐竹義憲が上杉氏より入嗣しているという経緯から血脈では上杉氏と佐竹氏は同族であったが、清和源氏の後裔である佐竹氏の家名を重んじて辞退している。しかし、憲政から家名と関東管領職を譲られた上杉謙信が催した関東出兵(越山)には参陣し、北条氏およびその与党勢力との戦いに明け暮れることとなる。
弘治3年(1557)の冬頃に下野国の宇都宮広綱を援けて壬生綱雄を撃退し、広綱を宇都宮城に復帰させた。これは江戸忠通の母が宇都宮氏の重臣である芳賀氏の出身であったことからであるが、このことにより宇都宮氏に対して影響力を行使するようになった。
永禄3年(1560)に結城晴朝を攻め、また、陸奥国南郷へも出兵し、白川晴綱の寺山城を攻めた。
永禄5年(1562)、家督を嫡男・義重に譲って隠居し、源真と号す。
また、同年8月には相馬(弾正大弼)盛胤の侵攻を受けるが常陸国石名坂で撃退している。
永禄6年(1563)、謙信3度目の越山にも参陣し、4月には宇都宮広綱とともに下野国小山城の小山秀綱を攻めて降した。また同年には下野国の那須氏の分裂抗争にも介入し、大関高増の要請を受けて那須資胤と大海に戦っている。
永禄7年(1564)1月には上杉謙信とともに小田氏治の拠る小田城を攻めて陥落させ、さらには氏治を追って土浦城をも攻撃した(越山:その4)。
また同年より後妻(大掾慶幹の娘)の縁を使って大掾氏の家政に介入し、6月には大掾氏の本城である常陸国府中城に入城。同年末には実弟の三郎を大掾貞国の後継として入嗣させ、昌幹と名乗らせて大掾氏の家督を継がせて実質的に大掾氏を傘下に収めた。
しかし永禄8年(1565)11月3日、享年35の若さで死去した。法名は浄安寺院殿常安源真大禅定門。