大関高増(おおぜき・たかます) 1529〜1600

下野国の国人領主。那須七騎。大田原資清の子。幼名は熊満。従五位下・右衛門佐・美作守。入道号は安碩未庵。下野国那須郡黒羽城主。
天文11年(1542)12月に父・資清が大関増次と戦って敗死させると、その名跡を継承して大関高増と名乗る。
高増の継承した大関氏や実家の大田原氏らは那須氏惣領家(上那須家)に属す有力領主であり、永正11年(1514)に上那須家が分裂抗争の末に滅亡したのちは独立領主となったようであるが、自領の維持や防衛のためなど情勢に応じて下那須家の那須資房に属し、高増は天文18年(1549)9月の五月女坂の合戦において、那須高資(下那須家の後裔)や伊王野・大田原・千本氏らと同心して宇都宮尚綱と戦っている。
永禄3年(1560)には那須資胤(高資の弟)に従って蘆名盛氏白川義親と戦っているが(小田倉の合戦)、のちには那須氏から離反して常陸国の佐竹義重と結び、数度の交戦に及んだ。
那須氏と佐竹氏が永禄11年(1568)9月に和睦した際に高増ら上那須家旧臣も那須氏に帰属したと思われ、天正2年(1574)に蘆名氏の勢力下にあった陸奥国白河郡の赤館に佐竹氏が侵攻した際、資胤の要請を受けて赤館の防衛に出陣している。
資胤の没後はその子・那須資晴に属したと思われるが、天正18年(1590)の小田原征伐に際して那須氏が静観を保ったのに対し、大関氏は羽柴秀吉に与して所領を安堵された。ただし、このときは子の晴増が折衝していたとみられる。
慶長5年(1600)1月14日に死去した。享年72。