白川義親(しらかわ・よしちか) 1541?〜1626?

陸奥国小峰城主。白河結城氏の支族・小峰氏の出身で、結城姓も名乗った。通称は七郎。左衛門佐。号は不説斎。
天文23年(1554)に蘆名盛氏の娘を娶り、蘆名氏と姻戚を結ぶ。
天正3年(1575)1月4日、宗家の白川義顕の留守に乗じて白河城を乗っ取って白川氏惣領の地位を奪った。しかし直後の2月に佐竹義重の攻撃を受け、旧佐竹家臣・和田昭為の寝返りによって捕らえられた。この後、義重の二男・義広を嗣子とすることで臣従した。
その後は小峰城で逼塞していたが天正5年(1577)閏7月、陸奥国関山城主・臼葉備中守が佐竹氏に叛いた機に乗じて白河城を奪還した。
天正6年(1578)7月頃、船尾昭直の仲介で佐竹氏と和睦、天正7年(1579)2月に義広に城主の地位を譲って自らは常陸国太田に幽居した。
のちに白河に帰り、天正13年(1585)の人取橋の合戦においては佐竹勢力として参陣した。
天正15年(1587)、養嗣子の義広が蘆名氏の名跡を継いで会津黒川城に入部すると、名実共に白河城主に復帰した。
天正17年(1589)6月の摺上原の合戦で蘆名氏が滅亡すると伊達政宗に服属し、天正18年(1590)の小田原征伐に参陣しなかった咎で所領を没収された。
のち、会津に入部した蒲生氏郷を頼ったが、失意のうちに白河湯元で没したという。