佐竹義重(さたけ・よししげ) 1547~1612

常陸国の戦国大名。天文16年(1547)2月16日に生まれる。佐竹義昭の嫡男。母は岩城重隆の娘。幼名は徳寿丸。通称は次郎。妻は伊達晴宗の娘。従四位下・常陸介・左近衛中将・大膳大夫・大学頭・縫殿頭。常陸国太田城主。
永禄5年(1562)に父・義昭より家督を譲られて佐竹氏当主となる。
永禄8年(1565)の冬には上杉謙信の関東出兵(越山:その5)に応じて北条氏勢力と戦い、翌年に常陸国南域の古豪・小田氏治の属城である常陸国片野城を奪取すると客将となっていた太田資正を籠め、永禄12年(1569)10月には太田資正・梶原政景父子の軍略によって小田氏治の本拠・小田城を陥落させ(手這坂の合戦)、常陸国における勢力を伸張させた。
この常陸国平定と並行して永禄9年(1566)には義昭の時代からの懸案であった下野国那須への侵出を企図し、那須氏の惣領・那須資胤と対立する大関高増の支援を名目として軍勢を派遣し、永禄11年(1568)9月に那須資胤と大関高増の和睦が成立したのちも那須氏への圧迫を続け、元亀3年(1572)6月には那須郡武茂郷の割譲を受けるという条件で和睦した。
元亀2年(1571)頃より陸奥国南域へも目を向け、白川氏の領する陸奥国白河郡に出兵。一時は上杉謙信と結んだ北条氏政の圧迫によって中断を余儀なくされたが、その氏政が武田信玄とも結んだため、信玄を宿敵とする謙信との和睦が成り、那須氏との抗争が決着したのちの元亀3年7月より白河への侵攻を再開している。このときの白河郡出兵には陸奥国会津郡の蘆名盛氏が白川方として参戦したが、翌月には蘆名・白川方との和議が成立した。
この後、義弟にあたる宇都宮広綱の要請を受けて12月には下野国の皆川氏を攻めたが、翌元亀4年(=天正元年:1573)2月には蘆名・白川氏が白河郡の佐竹領に侵攻してきたため防衛のため出陣し、8月には和睦を成立させて帰国した。
天正3年(1575)2月には白川氏の内紛に乗じて陸奥国白河城主・白川義親を臣従させたが、天正5年(1577)頃には佐竹領を除く関東のほぼ全域を勢力圏に収めていた北条氏の圧迫に苦しめられた。しかし天正6年(1578)の謙信の死を契機として北条氏の目が上野国方面に向くと、翌年には白河城に二男・義広(のちの蘆名盛重)を入れて掌握し、背後の陸奥国南部を固めている。
天正10年(1582)の本能寺の変ののち、北条氏が関東制覇に向けて活発に動き始めると下野国の宇都宮国綱や佐野宗綱らと連合し、北条勢の切り崩しを図った(沼尻の合戦)。戦況は必ずしも有利ではなかったが、羽柴秀吉の支援を得たことによって凌いでいる。
天正13年(1585)には蘆名氏の要請を受けて二本松氏を支援し、蘆名・岩城・白川ら陸奥国南域の諸氏と連合勢力を築いて伊達政宗と戦い(人取橋の合戦)、打撃を与えている。
天正14年(1586)に嫡子・義宣に家督を譲った(この家督譲渡を天正17年とする説もある)が、実権は持ち続けていたようである。
天正15年(1587)3月、白川氏に入嗣させていた子・義広を蘆名氏の当主に据え、蘆名氏を実質的に掌握した。
天正18年(1590)の小田原征伐において、羽柴秀吉から常陸・下野国内20万貫文余の地の支配権を正式に承認された。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役において、義宣が徳川家康(東軍)に従わなかった咎で領地を没収されそうになったが、義重が上洛して家康に赦免を請い、出羽国への移封で佐竹氏の存続に成功している。
出羽国移封後は六郷城に居し、慶長17年(1612)4月19日に没した。落馬によるものと伝わるが、前年には背中に腫物ができて治療していたともされ、その関連は不詳である。享年66。法名は知足院殿通庵闐信大居士。
『鬼義重』の異名を持つ勇将でありながらも冷静で巧みな外交戦略を展開、時勢に応じて北条氏や伊達氏などの大勢力に匹敵する連合体を築き上げ、北関東における覇権を確立した名将である。