沼尻(ぬまじり)の合戦

天正10年(1582)6月の本能寺の変の余波は関東地方にまで及び、関東における勢力構図は大きく塗り替えられることになった。
変の半月後には北条氏直が上野国の大半を支配していた滝川一益を破って上野国南半を攻め取り(神流川の合戦)、武田旧臣らによる一揆が蜂起した甲斐国は徳川家康が押さえるところとなったが、この両者は甲斐国北部、八ヶ岳南麓の若神子において3ヶ月ほどに及ぶ対峙を続けたが決着はつかず、10月下旬に領土協定や婚姻を取り決めて和議を結ぶに至った(若神子の合戦)。
この和議締結によって西方からの脅威を払拭した北条氏直は更なる勢力拡張を目論み、上野国中域や下野国への侵攻に取り掛かったのである。

この北条氏の動きに危機感を強めたのが常陸国の佐竹義重、下野国の宇都宮国綱や佐野宗綱らである。とくに佐野宗綱は北条勢力の切り崩しを画策し、北条氏に属す上野国新田金山城主の由良国繁、館林城主の長尾顕長に説得を重ね、北条方からの離反を促した。この宗綱の工作は功を奏し、由良・長尾の両氏は天正11年(1583)11月27日より北条方の上野国小泉城を攻めるに至ったのである。
この小泉城攻めには佐野勢も加わって断続的に圧迫を続けたが、城主の富岡四郎次郎(秀朝か)がよく防戦したため戦果を挙げることができずにいた。そうこうしているうちに北条氏も小泉城の支援に乗り出し、天正12年(1584)3月下旬には利根川を挟んで対岸の武蔵国本庄近辺に軍勢を集結させ、小泉城の後詰を果たすとともに由良・長尾勢の背後を脅かす策に出たのである。
この北条勢は長尾顕長方の下野国足利城へと向かい、徐々に長尾領を圧迫しはじめた。下野侵攻軍を率いるのは氏直の叔父で北条氏随一の猛将・北条氏照である。この氏照勢は1ヶ月に亘って足利を攻め、4月中旬には足利攻めを継続させつつも佐野へと向けて陣を移している。この北条勢の動きは、小泉城を攻めている軍勢の本拠あるいは拠点を衝くというのが目的であった。

一方、佐竹義重は4月上旬頃には宇都宮国綱と合流し、4月17日には共に下野国小山城(別称:祇園城)へと向けて宇都宮を発向、下旬には小山城を攻めている。つまり佐竹・宇都宮勢の出陣目的は当初より下野国方面からの切り崩しを図ったものであり、小泉城を支援するという目的の下に下野国に侵攻した北条勢を迎撃するためではなかったが、図らずも双方の攻撃目標が近接していたために両軍勢が接近することとなり、互いに撃退を企図することとなったのである。
佐竹・宇都宮勢は小山城攻めを中断して西へと向けて移動、小山と佐野の中間地点である沼尻において北条勢と対峙することとなったのである。
この両勢は双方とも5月5日までには沼尻に着陣しており、佐竹・宇都宮勢は既に陣城を築いていた。また12日までには北条氏政・氏直父子の率いる本隊も到着しており、双方とも戦備を固めている。双方の軍勢の数は史書や軍記によってまちまちなために不詳であると言わざるを得ないが、両軍とも大軍であり、兵数においても互角に近かったと推察される。この両軍が自陣を固め、敵方を誘き出して戦うという策を採ろうとしたため、どちらからも積極的に攻撃を仕掛けるということもなく、にらみ合いを続けることになったのである。

沼尻での戦況が膠着すると、双方ともに背後から揺さぶりをかけて戦端を開くことを目論んだ。
佐竹方では、北条勢の主力が沼尻の陣に釘付けされているのを好機と見た由良国繁が6月に上野国の巨海(こかい)を攻めている。この巨海は北条方の兵站基地となっており、沼尻での戦況を左右する拠点であった。しかし北条勢もそれは心得ていたと思われ、由良勢は北条方の武将・大藤政信によって撃退されている。7月には長尾顕長が再び巨海を攻めているがこのときも戦果を挙げることはできなかった。
佐竹勢が北条勢の兵站分断を策したのと同様に、北条方もまた常陸国小田城主・梶原政景を寝返らせることで後方攪乱を図った。この梶原政景は佐竹氏の客将となっていた太田資正の子であり、小田城は沼尻と佐竹氏の本拠・常陸国太田城との中間点にあたる。梶原政景の寝返りが6月13日、その1ヵ月後の7月15日には沼尻の北方にあたる岩船山が北条勢によって制圧された。この地は沼尻から宇都宮へ向かう際の要衝であり、つまりは佐竹・宇都宮勢の退路が断たれたことを意味する。

佐竹・宇都宮勢の背後を抑えたことで優位に立った北条勢だが、不安要素もあった。それは佐竹義重らと友好関係にあった羽柴秀吉の存在である。
この頃の秀吉は尾張国で徳川家康と対陣しており(小牧・長久手の合戦)、その家康は同盟関係にあった北条氏に支援を求めていたため、北条氏としては秀吉の動きも憂慮しなければならなかった。つまり秀吉は、家康の同盟勢力である北条氏と対峙する佐竹氏らを支援することで北条氏から家康への援助を牽制し、家康を封じる包囲網を作り上げていたのである。この包囲網には越後国の上杉景勝、陸奥国会津の蘆名盛隆らも関与しており、この両者は間接的に佐竹・宇都宮勢の後詰を果たしたということにもなる。
このため北条勢も佐竹・宇都宮勢を圧迫しているにも関わらず攻勢に出ることができず、佐竹・宇都宮勢にとっても背後を脅かされていたため、和議への動きが加速することとなった。
7月22日には双方が和議に同意し、翌23日には陣を解いたことによって沼尻の合戦は終結したのである。
しかしこの後、北条勢は由良氏の新田金山城や長尾氏の館林城を攻めて年内には攻略しており、佐竹勢も小田城を奪還している。