北条氏直(ほうじょう・うじなお) 1562〜1591

北条氏第5代当主。北条氏政の嫡男。二男であるが、長男は氏直の出生以前に夭折していたとみられるため、氏直を長男と表記することが多い。母は武田信玄の娘。幼名は国王丸。通称は新九郎。従五位下・左京大夫。相模国小田原城主。
天正8年(1580)8月19日、父・氏政から家督を譲られた。
本能寺の変後の天正10年(1582)6月に織田領に侵出、織田家武将・滝川一益を上野国神流川の合戦で破り、上野国の大部分を平定することに成功した。さらに信濃国の小県・佐久地方をおさえて甲斐国にも侵攻する。
同年8月、滅亡した武田氏の旧領をめぐって甲斐国若神子で徳川家康と対峙するが(若神子の合戦)、10月に織田信雄の斡旋で甲斐・信濃の両国を家康が、上野国を氏直が領すること、徳川氏と婚姻を結ぶことを約して和を結び、天正11年(1583)8月15日に家康の娘・督姫を正室に迎えた。
同年9月には上野国厩橋城に拠る北条高広を降したが、11月には上野国の国人領主である由良国繁・長尾顕長兄弟の離反が明らかとなり、天正12年(1584)の由良兄弟を支援する佐竹義重を中心とした連合軍との戦い(沼尻の合戦)を経たのちに鎮圧に成功している。
天正15年(1587)以後は羽柴秀吉との決戦を予想して軍備増強に努めた。家康の斡旋で叔父・北条氏規を秀吉のもとに派遣したこともあるが、天正17年(1589)11月に真田昌幸の属領である上野国名胡桃城を奪ったことが秀吉の小田原征伐の口実となり、大軍の包囲を受けた。
小田原に籠城して抗するも支城を次々と落とされ、天正18年(1590)7月5日に降伏開城。父・氏政らは切腹を命じられたが、氏直は一命は助けられて同年8月、高野山に蟄居した。
翌天正19年(1591)2月に赦免を受け、堪忍分1万石を与えられ豊臣大名として再生する道が開けたが、10月下下旬頃に疱瘡を患い、その年の11月4日に病死した。30歳。法名は松巌院太円宗徹大居士。
氏直の死によって北条氏の嫡流は断絶したが、氏規の子・氏盛に家名が継がれることになった。